還暦記:暖淡堂

還暦前後の日々の記録

臨済録

「臨済録」序文を読む Google Blogger「散木の小屋」の記事から 臨済の生涯をざっと見る

こんにちは、暖淡堂です。 今回はGoogle Bloggerで運営している「散木の小屋」の記事から、「臨済録」の序文について書いたものをちょっとだけ詳しく紹介します。 sanboku.blogspot.com 他のところでも書きましたが、「臨済録」はお経が書かれているのではあ…

「臨済録」という書物のこと【古典文学:臨済録】

古典文学 こんにちは、暖淡堂です。 相変わらず色々な本を読んでいるのですが、その中でも最近時間を見つけては少しずつ読み進めているのが「臨済録」です。 このところ、一番手にする回数の多い書物かもしれません。 「臨済録」は中国の唐の時代の後半に生…

臨済の教えはどうして鎌倉で受容されたか 栄西が渡った当時の中国の状況から考える

こんにちは、暖淡堂です。 別ブログ「散木の小屋」で「臨済録」原文全文と現代語訳を紹介しています。 今回は以下の記事を作成した時に考えたことを書きたいと思います。 sanboku.blogspot.com 臨済が修行をし、また多くの修行僧たちを指導した時代は唐の末…

臨済はどのように修行を始めたか 臨済録序文の冒頭より

こんにちは、暖淡堂です。 臨済録の現代訳作業を少しずつ進めています。 今回はどのように臨済が修行を始めたのか、それが書かれている部分。 序文の一番初めの部分を紹介します。 「散木の小屋」で紹介した馬防の肩書きの文章のすぐ後に続くところです。 sa…

臨済は1000年以上前のジェリー・ミンチントン 自尊心に不安が生じたら「臨済録」も読んでみるといい

この記事は暖淡堂の別のブログ「散木の小屋」に移転しました。約2秒後に新記事へ移動します。移動しない場合はココをクリックしてください。 // 現在のurl var href = window.location.href; // 記事ページのurl正規表現 var re = new RegExp(".*entry.*"); …

臨済録現代語訳の進捗 「散木の小屋」の記事を紹介します

こんにちは、暖淡堂です。 別サイト「散木の小屋」で、古典「臨済録」の原文全文のデータの公開と、少しずつ現代語訳の紹介をしています。 「臨済録」は臨済の語録です。 それはただ禅の教えではなく、私たちが日常暮らしていく上で感じる不安や迷いなどを乗…

【臨済録を読む】示衆(2)「今日多般用處、欠少什麼。」(今日さまざまな現象として目に見えることには、なにも欠けたものなどいないのだ) 今、この時に理解せよ 原文と現代語訳

こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」示衆から。 原文:今日多般用處、欠少什麼 現代語訳:今日さまざまな現象として目に見えることには、なにも欠けたものなどいないのだ 臨済のところに集まっている修行僧たちは、いろいろな経緯を辿っています。 それでも…

【臨済録を読む】示衆(1)「師晚參示衆云」(師は晚參の時、衆に対して言った) 臨在の四料揀 原文と現代語訳

こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」示衆から。 原文:師晚參示衆云 現代語訳:師は晚參の時、衆に対して言った 「臨済録」示衆の部分、分量があります。 ここでは臨済の示した考え方について、修行僧たちから質問されます。 それに対して臨済は丁寧に答え…

【臨済録を読む】上堂(9)「汝等諸人、作麼生會」(さて、諸君はそれをどのように会得するのか) 方便の効用、言葉の目指すもの 原文と現代語訳

こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」上堂の最後の部分から一文を紹介します。 臨在が「三句」、「三玄三要」について説明した後に言われた言葉です。 原文:汝等諸人、作麼生會 現代語訳:さて、諸君はそれをどのように会得するのか 禅の教えについての「三…

【臨済録を読む】上堂(8)「論劫在途中、不離家舍」(仏法を論じて進みながらも本来いるべきところを離れていない) 結局はいま、ここ、にいるだけ 原文と現代語訳

こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」上堂から一文を紹介します。 原文:論劫在途中、不離家舍 現代語訳:仏法を論じて進みながらも本来いるべきところを離れていない 臨済は、修行するものの姿を二通り示しています。 その一つがこの文章で示されているもの…

【臨済録を読む】上堂(7)「不作維摩詰、不作傅大士」(維摩詰だ、傅大士だ、などとは言うなよ) 修行には先も後もない 原文と現代語訳

維摩詰も傅大士も、それぞれ修行の先に行き着いてしまった人たちのこと。 そんな人たちの、どちらがより優れているのか。 臨済は、そんなことはどうでもいいのだ、と言っています。 そもそも修行には先も後もないのです。 修行することが、そのまま悟りにな…

【臨済録を読む】上堂(6)「師云、禍事、禍事」(師は言った、危ない、危ない、と) わかった気になることの危うさ 原文と現代語訳

そもそも棒の一打に何らかの特別な意味があるわけではない。 そんなところに何かを探したりするな。 棒に打たれるなど、草むらを歩いていて、足に草の茎が当たるくらいのものだ。 そこを取り違えるな。 臨済はそう言っているようです。

【臨済録を読む】上堂(5)「如蒿枝拂著相似」(そんなものは蓬の枝で打たれたようなもの) 棒の一打 原文と現代語訳

そもそも棒の一打に何らかの特別な意味があるわけではない。 そんなところに何かを探したりするな。 棒に打たれるなど、草むらを歩いていて、足に草の茎が当たるくらいのものだ。 そこを取り違えるな。 臨済はそう言っているようです。

【臨済録を読む】上堂(4)「師云、賓主歷然」(主人と賓客との差は歴然としているではないか、と師は答えた) 賓主とは 原文と現代語訳

こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」上堂から以下の一文を紹介します。 原文:師云、賓主歷然 現代語訳:主人と賓客との差は歴然としているではないか、と師は答えた 両堂(東堂と西堂)の首座(修行僧の最上位の者)が出会い頭に喝を交わします。 それにつ…

【臨済録を読む】上堂(3)「赤肉團上有一無位真人」(この肉の塊である身体には無位の真人がいて) 原文と現代語訳

こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」上堂から。 原文:赤肉團上有一無位真人、常從汝等諸人面門出入 現代語訳:この肉の塊である身体には無位の真人がいて、常に諸君らの顔の穴から出たり入ったりしている 赤肉團とは、生きている肉体、あるいは動き続けて…

【臨済録を読む】上堂(2)「大悲千手眼、那箇是正眼」(大悲千手の観音菩薩の手のひらの眼は、いったいどれが真っ直ぐに向き合う眼なのか) 原文と現代語訳

こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」上堂から一文を紹介します。 原文:大悲千手眼、那箇是正眼 現代語訳:大悲千手の観音菩薩の手のひらの眼は、いったいどれが真っ直ぐに向き合う眼なのか 大悲千手をご覧になった方はいらっしゃるでしょうか。 千本(だい…

「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代

臨済の修行のスタイルは、よく「臨済の喝」と呼ばれます。師や弟子たちとのやり取りで、勘所にくると「喝」と叫び、悟りへの一歩を進めます。 師の黄檗は「黄檗の棒」とされているのと好対照ですね。黄檗は弟子を棒でピシャリと打ちました。 臨済もまた棒で…

【臨済録を読む】上堂(1)「府主王常侍、與諸官請師升座」(成徳府主の王常侍が諸官とともに師に説法を依頼した) 原文と現代語訳

こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」上堂から、最初の部分を紹介します。 原文:府主王常侍、與諸官請師升座 現代語訳:成徳府主の王常侍が諸官とともに師に説法を依頼した 府主は唐の時代の河北州にあった藩鎮成徳府の主人という意味ですね。 その王常侍が…

【臨済録】鎮州臨濟慧照禪師語錄序の原文と現代語訳

こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」の現代語訳記事を紹介します。 臨済録全体を読んで思ったのですが、臨済の言葉は、自分自身を取り戻せと言い続けているようです。 そのために、特別な、ことさらなことなど、わざわざする必要はない。 今、まさにそこに…

鎌倉と仏教 北条氏と臨済宗 臨済録と禅

平安時代の終わり頃から鎌倉時代にかけて、武士や庶民に仏教の教えが広まりました。 それまでの仏教は教義が難しく庶民には理解しにくいものでした。 また、戦乱で命のやりとりをする武士にとって求められているものに十分に応えられているものでもありませ…

臨済録の序文から考える 臨済録はどのような人たちに読まれたか

こんにちは、暖淡堂です。 ブログ「散木の小屋」では「臨済録」の原文全文をページで公開しています。 どうぞご参照ください。 sanboku.blogspot.com で、現在「臨済録」の原文に現代語訳を少しずつ進めています。 毎朝10分くらいずつしか作業をしていない…

臨済の四照用 古典としての「臨済録」に学ぶ

こんにちは、暖淡堂です。 古典「臨済録」について、少しずつ紹介します。 僕はお坊さんではなく、仏教の研究者でもありません。 ただの読書人です。 なので、難しいことはわかっていません。 すみません。 「臨済録」を古典として読んで、わかったことや考…

臨済録 原文全文 活き活きとした禅の言葉の奔流

臨済録原文は宋が金の圧迫を受けていた頃(1120年頃)に円覚宗演がまとめたものと伝えられているものを用いました。 臨済録は、唐から宋、明にかけて多くの人たちに読み継がれて来ました。 その文章は、当時の口語文に近いとのこと。 いわゆる我々が学校で漢…

PVアクセスランキング にほんブログ村