臨済録
こんにちは、暖淡堂です。 ゴールデンウィークが終わり、早速夏休みまでのカウントダウンを始めた人も多いかと 僕は出向準備中で、気持ち的に落ち着かなかったのですが、それでもお休みの日数は多めに取りました。 今年のゴールデンウィークの前半にやったの…
こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」の示衆から。 臨済の下に集まって教えを乞う僧たちは、きまって、今自分が持っていないものを求めています。 自分が理解できていないもの、知らないもの、所有していないもの。 そんなものが、禅を修行することで得られ…
こんにちは、暖淡堂です。 今回から「臨済録」の示衆の部分を少しずつ紹介します。 示衆には晩参(夜に行われた説法)で、臨済と参加者との間で交わされた言葉が記録されています。 臨済の教えの全体像を把握するには、この部分の精読が欠かせません。 一方…
こんにちは、暖淡堂です。 今回はGoogle Bloggerで運営している「散木の小屋」の記事から、「臨済録」の序文について書いたものをちょっとだけ詳しく紹介します。 sanboku.blogspot.com 他のところでも書きましたが、「臨済録」はお経が書かれているのではあ…
古典文学 こんにちは、暖淡堂です。 相変わらず色々な本を読んでいるのですが、その中でも最近時間を見つけては少しずつ読み進めているのが「臨済録」です。 このところ、一番手にする回数の多い書物かもしれません。 「臨済録」は中国の唐の時代の後半に生…
こんにちは、暖淡堂です。 別ブログ「散木の小屋」で「臨済録」原文全文と現代語訳を紹介しています。 今回は以下の記事を作成した時に考えたことを書きたいと思います。 sanboku.blogspot.com 臨済が修行をし、また多くの修行僧たちを指導した時代は唐の末…
こんにちは、暖淡堂です。 臨済録の現代訳作業を少しずつ進めています。 今回はどのように臨済が修行を始めたのか、それが書かれている部分。 序文の一番初めの部分を紹介します。 「散木の小屋」で紹介した馬防の肩書きの文章のすぐ後に続くところです。 sa…
この記事は暖淡堂の別のブログ「散木の小屋」に移転しました。約2秒後に新記事へ移動します。移動しない場合はココをクリックしてください。 // 現在のurl var href = window.location.href; // 記事ページのurl正規表現 var re = new RegExp(".*entry.*"); …
こんにちは、暖淡堂です。 別サイト「散木の小屋」で、古典「臨済録」の原文全文のデータの公開と、少しずつ現代語訳の紹介をしています。 「臨済録」は臨済の語録です。 それはただ禅の教えではなく、私たちが日常暮らしていく上で感じる不安や迷いなどを乗…
こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」示衆から。 原文:今日多般用處、欠少什麼 現代語訳:今日さまざまな現象として目に見えることには、なにも欠けたものなどいないのだ 臨済のところに集まっている修行僧たちは、いろいろな経緯を辿っています。 それでも…
こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」示衆から。 原文:師晚參示衆云 現代語訳:師は晚參の時、衆に対して言った 「臨済録」示衆の部分、分量があります。 ここでは臨済の示した考え方について、修行僧たちから質問されます。 それに対して臨済は丁寧に答え…
こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」上堂の最後の部分から一文を紹介します。 臨在が「三句」、「三玄三要」について説明した後に言われた言葉です。 原文:汝等諸人、作麼生會 現代語訳:さて、諸君はそれをどのように会得するのか 禅の教えについての「三…
こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」上堂から一文を紹介します。 原文:論劫在途中、不離家舍 現代語訳:仏法を論じて進みながらも本来いるべきところを離れていない 臨済は、修行するものの姿を二通り示しています。 その一つがこの文章で示されているもの…
維摩詰も傅大士も、それぞれ修行の先に行き着いてしまった人たちのこと。 そんな人たちの、どちらがより優れているのか。 臨済は、そんなことはどうでもいいのだ、と言っています。 そもそも修行には先も後もないのです。 修行することが、そのまま悟りにな…
そもそも棒の一打に何らかの特別な意味があるわけではない。 そんなところに何かを探したりするな。 棒に打たれるなど、草むらを歩いていて、足に草の茎が当たるくらいのものだ。 そこを取り違えるな。 臨済はそう言っているようです。
そもそも棒の一打に何らかの特別な意味があるわけではない。 そんなところに何かを探したりするな。 棒に打たれるなど、草むらを歩いていて、足に草の茎が当たるくらいのものだ。 そこを取り違えるな。 臨済はそう言っているようです。
こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」上堂から以下の一文を紹介します。 原文:師云、賓主歷然 現代語訳:主人と賓客との差は歴然としているではないか、と師は答えた 両堂(東堂と西堂)の首座(修行僧の最上位の者)が出会い頭に喝を交わします。 それにつ…
こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」上堂から。 原文:赤肉團上有一無位真人、常從汝等諸人面門出入 現代語訳:この肉の塊である身体には無位の真人がいて、常に諸君らの顔の穴から出たり入ったりしている 赤肉團とは、生きている肉体、あるいは動き続けて…
こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」上堂から一文を紹介します。 原文:大悲千手眼、那箇是正眼 現代語訳:大悲千手の観音菩薩の手のひらの眼は、いったいどれが真っ直ぐに向き合う眼なのか 大悲千手をご覧になった方はいらっしゃるでしょうか。 千本(だい…
臨済の修行のスタイルは、よく「臨済の喝」と呼ばれます。師や弟子たちとのやり取りで、勘所にくると「喝」と叫び、悟りへの一歩を進めます。 師の黄檗は「黄檗の棒」とされているのと好対照ですね。黄檗は弟子を棒でピシャリと打ちました。 臨済もまた棒で…
こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」上堂から、最初の部分を紹介します。 原文:府主王常侍、與諸官請師升座 現代語訳:成徳府主の王常侍が諸官とともに師に説法を依頼した 府主は唐の時代の河北州にあった藩鎮成徳府の主人という意味ですね。 その王常侍が…
こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」の現代語訳記事を紹介します。 臨済録全体を読んで思ったのですが、臨済の言葉は、自分自身を取り戻せと言い続けているようです。 そのために、特別な、ことさらなことなど、わざわざする必要はない。 今、まさにそこに…
平安時代の終わり頃から鎌倉時代にかけて、武士や庶民に仏教の教えが広まりました。 それまでの仏教は教義が難しく庶民には理解しにくいものでした。 また、戦乱で命のやりとりをする武士にとって求められているものに十分に応えられているものでもありませ…
こんにちは、暖淡堂です。 ブログ「散木の小屋」では「臨済録」の原文全文をページで公開しています。 どうぞご参照ください。 sanboku.blogspot.com で、現在「臨済録」の原文に現代語訳を少しずつ進めています。 毎朝10分くらいずつしか作業をしていない…
臨済録原文は宋が金の圧迫を受けていた頃(1120年頃)に円覚宗演がまとめたものと伝えられているものを用いました。 臨済録は、唐から宋、明にかけて多くの人たちに読み継がれて来ました。 その文章は、当時の口語文に近いとのこと。 いわゆる我々が学校で漢…