こんにちは、暖淡堂です。
今回はGoogle Bloggerで運営している「散木の小屋」の記事から、「臨済録」の序文について書いたものをちょっとだけ詳しく紹介します。
他のところでも書きましたが、「臨済録」はお経が書かれているのではありません。
この書物には臨済自身の「言葉」が記録されています。
それはまさしく、東洋哲学の核心の部分であるともいえます。
序文本文の現代語訳の部分を、書き直すと次のようになります。
ここで書かれているのは、臨済の修行を始めた頃から亡くなるまでのことです。
黄檗和尚のもとで修行をしていたときは、棒で打たれることが何度もあった。
黄檗に言われて、大愚和尚のところへ行ったら、大愚の言葉で不意に悟りに至り、あろうことか大愚の肋を拳で突き上げた。
黄檗と大愚の間を行き来しているときに、老婆と出会い、修行の足りない寝小便たれの小僧とバカにされたが、それでも懲りずに黄檗のもとに戻っていって、今度は虎のヒゲを引っ張るようなことまでした。
黄檗のところで作業をしているとき、岩山に松を植えて、後世の人のための道標だと言ったが、鋤で地面を掘っただけでは、後世の人を生き埋めにするようなもので、危なくて近寄れない
黄檗はとんでもないマヌケに伝授をしてしまったのかと、それを許す言葉を吐いた口を叩いた。そんなマヌケは、あろうことか百丈和尚から黄檗に伝えられた大切な机を燃やしてしまい、黄檗は舌を切られたみたいに何も言えなかった。
南に行くのでなければ、北に行くに決まっている。そう言って黄檗のもとを離れたあとに辿り着いたところは、川の渡場を望む(臨済)ところにある院で、その渡場ではたくさんの人が川を渡っていた。
その院は、誰もが見上げるような場所に建っていて、臨済はそこで、弟子たちを、それぞれの人格も、世間のしがらみも、みんな奪い取るように鍛錬していた。
修行では奥深い要点や方便なども用いて修行者を鍛え上げた。臨済の教えの肝心のところは、常に自分自身であれ、本来あるべきところから離れるな、というものであった。
なにものにも囚われない真の姿の自分が、いまそこにいる君たちの顔から出たり入ったりしていると言って聞かせた。両堂で同時に発せられた喝にも、どちらが主でどちらが客か、はっきりしていると説明した。
思うことと動くこと、意識と行動とは、どちらが先、どちらが後ということはない。それらは同じものの二面であり、磨かれた鏡がものを映すようなもの、山や谷がこだまを返すようなもの。
鏡に映った姿も、山から返ったこだまも、どちらも跡を残さない。それでいいのだと教えた。それからそこを離れて南に向かい、大名府で落ち着いた。
そこの東堂に落ち着き、興化が弟子となって仕えた。銅の瓶、鉄の鉢といったわずかなものだけを持ち、部屋の入り口を開けて出入りすることもほとんどなく、静かに日々を暮らしていた。
松が老い、空を雲が静かに流れるうちに、心のままの暮らしを送っていた。達磨和尚のように壁に向かって坐禅を組むこともそれほど長くなかった間に、仏法の伝授は終わっていた。
さて、その伝授は誰に対して行われたのか。目の見えないロバの耳元で囁いただけで、どこかへ消えてしまったのではないだろうか。
この記録は円覚宗演という老和尚がまとめて流通させてくれた。
内容はよく吟味されているので、文字の上での誤りはないが、あの一喝の響きをこの書物から聞き取ることはできない。その意味は、これを読むものはよく考えてほしい。
力のある禅の修行者よ、そこのところを、どうか読み違えしないでくれ。
これを書きながら、改めて「臨済録」の面白さ、臨済の教えの深さを思います。
多くの人にぜひ一度でも読んでいただけたらと願っています。
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