還暦記:暖淡堂

還暦前後の日々の記録を中心に

百人一首の歌人

「由良の門を渡る船人梶を絶え」 曽禰好忠 心情に具体的な風景を与える

百人一首第46番目の歌の作者は曽禰好忠そねのよしただです。 三十六歌仙の一人です。 今回は曽禰好忠について紹介します。 曽禰好忠とは 生没年は詳しくはわかりませんが、平安中期の人でした。 官位は六位、丹後掾を勤めました。 和歌の才能はありながらも…

「あはれとも言ふべき人は思ほえで」 謙徳公 同情を求めた「切なさ」の表現

百人一首第45番目の歌の作者は謙徳公(藤原伊尹これまさ)です。 藤原忠平の孫になります。 今回は謙徳公について紹介します。 中納言朝忠とは 生年が924年、没年が972年。平安中期の人。 この人も当時の権勢の中心にいた藤原北家につらなる一人で、藤原忠平…

「逢ふことのたえてしなくはなかなかに」 中納言朝忠 心の曲折を表現した歌

百人一首第44番目の歌の作者は中納言(藤原)朝忠。 この人も三十六歌仙の一人です。 今回は中納言朝忠について紹介します。 中納言朝忠とは 生年が910年、没年が967年。平安中期の人でした。 当時の権勢の中心にいた藤原北家につらなる一人。 官位は従三位…

「逢ひ見てののちの心にくらぶれば」 権中納言敦忠 後朝(きぬぎぬ)に詠まれた歌

百人一首第43番目の歌の作者は権中納言(藤原)敦忠あつただ。 左大臣藤原時平の息子です。 曽祖父が在原業平で、多芸の貴公子だったようです。 三十六歌仙の一人でもあります。 今回は権中納言敦忠について紹介します。 権中納言敦忠とは 生年が906年、没年…

「契りきなかたみに袖をしぼりつつ」 清原元輔 多作な歌人、清少納言の父 末の松山とは

百人一首第42番目の歌の作者は清原元輔です。 百人一首第36番目の歌の作者清原深養父の孫で、第62番目の歌の作者清少納言の父です。また、三十六歌仙の一人であり、後撰和歌集の選者でもありました。 今回は清原元輔について紹介します。 清原元輔とは 生年…

「恋すてふわが名はまだき立ちにけり」 壬生忠見 内裏歌合での名勝負

百人一首第41番目の歌の作者は壬生忠見です。 この歌は40番目の平兼盛の歌と、村上天皇の内裏歌合で優劣を競ったもの。 村上天皇は平兼盛の歌を勝ちとしましたが、いずれの歌も優れていたため、後世に名勝負として伝えられました。 今回は壬生忠見について紹…

百人一首の時代 第31歌から第40歌まで まとめ

百人一首の第31歌から第40歌までをまとめます。 途中で、選ばれる歌が、古今和歌集にあるものから、古今和歌集以後の勅撰和歌集のものに変わります。また、源姓、平姓の作者も現れてきます。その中から武力集団を構成するものや、文学の才能を伸ばすものなど…

「忍ぶれど色に出にけりわが恋は」 平兼盛 内裏歌合での名勝負の勝者となった歌

百人一首第40番目の歌の作者は平兼盛です。 三十六歌仙の一人。 平姓の人ですね。 臣籍降下で出来た平家の一人ですが、その系譜には若干不明な部分があるようです。 赤染衛門の実父でもあります。 今回は平兼盛について紹介します。 平兼盛とは 生年は不明で…

「浅茅生の小野の篠原忍ぶれど」 参議等 うねる言葉で表現された恋歌 臣籍降下で生まれた源氏と平氏のこと

百人一首第39番目の歌の作者は参議等ひとし、源等です。 今回は参議等について紹介します。 参議等とは 嵯峨源氏につらなる人です。 880年生まれ、951年没。平安時代中期の人です。 最終官位は正四位下、参議でした。 醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇に仕えた…

「忘らるる身をば思はず誓ひてし」 右近 恋多き女の言葉にこめられた毒

百人一首第38番目の歌の作者は右近。 今回は右近について紹介します。 右近とは 生没年不詳。平安時代中期の人です。 右近衛少将藤原季縄の娘と伝えられています。 醍醐天皇の中宮穏子に仕えていました。 恋多き女性だったようで、元良親王・藤原敦忠・藤原…

「白露に風の吹きしく秋の野は」 文屋朝康 散る玉に想うはかなさ

百人一首第37番目の歌の作者は文屋朝康ふんやのあさやすです。 今回は文屋朝康について紹介します。 文屋朝康とは この人も生没年がはっきりしません。平安時代前期の人のようです。 古今和歌集が成立したころに歌人として活動をしていたようですが、古今和…

「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを」 清原深養父 短い夏の夜を愛しむ

百人一首第36番目の歌の作者は清原深養父きよはらのふかやぶです。 三十六歌仙の一人です。 今回は清原深養父について紹介します。 清原深養父とは 生没年ははっきりしません。平安時代中期の人です。 官位は従五位下。晩年は洛北に補陀落寺を建立。自らそこ…

「人はいさ心も知らずふるさとは」 紀貫之 仮名文字で書かれた「土佐日記」の作者としても知られる

百人一首第35番目の歌の作者は紀貫之です。 古今和歌集の選者であり、三十六歌仙の一人です。 また土佐日記の作者とも知られています。 今回は紀貫之について紹介します。 紀貫之とは 生年866年頃、没年942年頃。平安時代前期から中期にかけての人になります…

「誰をかも知る人にせむ高砂の」 藤原興風 長寿の寂しさも詩情とする

百人一首第34番目の歌の作者は藤原興風おきかぜです。 三十六歌仙の一人です。 今回は藤原興風について紹介します。 藤原興風とは 生没年は不詳です。 この百人一首の歌の通りであれば、長寿の人だったと思われます。 最終の官位は正六位上でした。 和歌の実…

「ひさかたの光のどけき春の日に」 紀友則 散る桜に心を奪われる都人

百人一首第33番目の歌の作者は紀友則。 古今和歌集の選者で、三十六歌仙の一人でもありました。 また、紀貫之の従兄弟にあたります。 今回は紀友則について紹介します。 紀友則とは 生年は845年頃、没年は907年。 最終の官位は六位で、役職は大内記でした。 …

「山川に風のかけたるしがらみは」 春道列樹 見立てで歌う秋の彩り

百人一首第32番目の歌の作者は春道列樹はるみちのつらき。 平安時代前期の歌人でした。。 今回は春道列樹について紹介します。 春道列樹とは 生年は不明、没年は920年とされています。 910年に文書生となり、その後太宰大典となり、さらに壱岐守に任じされま…

「朝ぼらけ有明の月と見るまでに」 坂上是則 白雪の降り積もる吉野の里

百人一首第31番目の歌の作者は坂上是則。 三十六歌仙の一人です。 今回は坂上是則について紹介します。 坂上是則とは 生年は不明、没年が930年頃。 大和大掾に任じられていますので、それで吉野への愛着が強かったのかもしれません。 最終官位は従五位下・加…

百人一首の時代 第21歌から第30歌まで まとめ

百人一首の第21歌から第30歌までをまとめます。 時代背景としては、都では藤原北家の権勢の拡大、東国では荘園制度から武士勢力の台頭、西国では大陸との貿易で力をつけた民が、それぞれの動きを活発化させていたことが注目されます。 そんな流れのなかで、…

「有明のつれなく見えし別れより」 壬生忠岑 定家が「名歌」という一首

百人一首第30番目の歌の作者は壬生忠岑です。 36歌仙の一人です。古今和歌集の選者でもありました。 今回は壬生忠岑について紹介します。 壬生忠岑とは 生年860年頃、没年が920年頃。 前回の凡河内躬恒とほぼ同じ時代の人です。 和歌の才能は高く評価されて…

「心あてに折らばや折らむ初霜の」 凡河内躬恒 古今和歌集の選者の一人

百人一首第29番目の歌の作者は凡河内躬恒おおしこうちのみつねです。 36歌仙の一人であり、古今和歌集の選者でもありました。 今回は凡河内躬恒について紹介します。 凡河内躬恒とは 生年859年は、没年が925年といわれています。 甲斐、丹波、和泉、淡路など…

「山里は冬ぞ寂しさまさりける」 源宗于朝臣 光孝天皇の孫 臣籍降下について

百人一首第28番目の歌の作者は源宗于みなもとのむねゆき朝臣あそんです。 光孝天皇の孫にあたります。 今回は源宗于朝臣について紹介します。 源宗于朝臣とは 生年は不詳、没年が940年です。 894年に源の姓を与えられ、臣籍降下、つまり皇族を離れて天皇に仕…

「みかの原わきて流るるいづみ川」 中納言兼輔 風雅な交流の中心だった紫式部の曽祖父

百人一首第27番目の歌の作者、中納言兼輔こと、藤原兼輔です。 紫式部の曽祖父にあたる人物です。 今回は中納言兼輔、藤原兼輔について紹介します。 中納言兼輔こと藤原兼輔とは 877年に生まれ933年に亡くなっています。 享年57。 醍醐天皇に仕え、最終官位…

「小倉山峰の紅葉ば心あらば」 貞信公 権勢の中心にいるものの歌

百人一首第26番目の歌の作者は貞信公、藤原忠平です。 藤原北家が権勢を極める第一歩を踏み出した人です。 今回は貞信公、藤原忠平について紹介します。 貞信公、藤原忠平とは 藤原忠平は、菅原道真と対立した藤原時平の弟。菅原道真を太宰府に左遷しました…

百人一首の歌人たちが生きた時代 動乱と変革の果て

飛鳥川 こんにちは、暖淡堂です。 週に1回のペースで百人一首の歌人たちを紹介しています。 普通に一首ずつ、その和歌としての読みを説明するのではなく、それぞれの歌人たちが生きた時代を俯瞰できるような記事にしようと考えています。 その理由は、百人…

「名にし負はば逢坂山のさねかづら」 三条右大臣 風雅を愛する高官の一首

百人一首第25番目の歌の作者は三条右大臣、藤原定方です。 醍醐天皇、宇多天皇、朱雀天皇に仕えました。 今回は三条右大臣、藤原定方について紹介します。 三条右大臣、藤原定方とは 873年生まれ、932年没との記録が残っています。藤原北家勧修寺流の人です…

「このたびは幣も取りあへず手向山」 菅家 宇多上皇の御幸で

百人一首第24番目の歌の作者は菅家。菅原道真です。 藤原氏と対立し、左遷されるまでは天皇や上皇の近くにいて、その才能を愛されていました。 今回は菅家、菅原道真について紹介します。 菅原道真とは 845年生まれ、903年没です。学者で参議にまで上った菅…

「月見れば千々にものこそ悲しけれ」 大江千里 故事によせた哀詩

百人一首第23番目の歌の作者は大江千里です。 中古三十六歌仙の一人で、漢学者でもありました。 今回は大江千里について紹介します。 大江千里とは 在原行平、在原業平の甥ともいわれています。 生没年は不明ですが、清和天皇から醍醐天皇まで続けて仕えてい…

「吹くからに秋の草木のしほるれば」 文屋康秀 小野小町に向けた優しさ

百人一首第22番目の歌の作者は文屋康秀ふんやのやすひでです。 六歌仙の一人で、小野小町とも親交があったとされています。 今回は文屋康秀について紹介します。 文屋康秀とは 生没年などは不明ですが、877年、880年頃に任官していますので、9世紀末頃の人…

「今来むと言ひしばかりに長月の」 素性法師 父に導かれ僧侶となった

百人一首第21番目の歌の作者は素性法師です。 僧正遍昭の子で、父の勧めで出家ししました。 今回は素性法師について紹介します。 素性法師とは 生没年は不明ですが、9世紀末から10世紀にかけて生きた人です。 清和天皇の時代に左近将監まで昇進したようです…

第1歌から第20歌までをまとめます

百人一首の選者、藤原定家は1162年の生まれ。 時代は保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)を経て、平清盛が強大な権力を持ちつつあった頃でした。 その後、藤原定家は平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立、承久の乱による後鳥羽院の配流などを見ながら、自らは和…

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