安心感の研究 by 暖淡堂

穏やかに日々を送るための試みの記録

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小学校の木造校舎のこと 大きくて、ところどころに暗がりがあって 【沙河34】

北海道砂川で過ごした昭和の日々

  

僕が通っていた小学校は、炭鉱での石炭採掘が盛んに行われていた頃に建てられた木造の校舎でした。

昭和50年代になると、石炭の需要減に加え、大規模な炭鉱事故などもあって、採掘量は減っていました。

 

炭鉱関連での仕事が少なくなり、近隣の町を含めた一帯から子供が減っていた頃です。

校舎の中には使われていない教室がたくさんあって、それも校舎の奥の方に並んでいたので、曇った薄暗い日などには、そこにいくのが怖いくらいでした。

 

廊下もところどころ軋んで、不気味な音が出るときもありました。

トイレも古くて、個室を使うのはよっぽど我慢できないときに限られていました。

  

【沙河】昭和五一年~昭和五二年 (十五)③

  

 小学校は小高い丘の上にあった。大きな木造校舎だった。

 私の住む町の周囲には、炭鉱がまだいくつかあった。町中を流れる川は、炭鉱で採掘された石炭を洗った廃水を流すので、時々真っ黒になっていた。

 その炭鉱が、少しずつ閉山になり、働いていた人が町を出ていっている。それで子供も減っていた。最盛期には児童数が多く、大きな校舎でも収容しきれないほどで、さらに増築される予定だったらしい。

 その大きな校舎の中に、使われていない教室がたくさんあった。

 理科室や、家庭科用の調理実習室や被服室などがあった棟は、それ以外の部屋は全部空いていた。

 私たちが通っていた昭和四〇年代後半にはもう一学年二クラスずつしかなかった。それも一クラス二十五人くらいだった。妹の学年は、丙午の年生まれの子供たちが大部分を占めるので、子供が少なかったため、一クラスしかなかった。

 それで、大きな校舎を少ない児童がゆったりと使って勉強していた。  

  

「沙河」(暖淡堂書房)から

 

   

*☺☺☺☺☺*

    

古い木造校舎でしたが、今はもうありません。

思い出の中でひっそりと建ち続けています。

  

小学校の木造校舎のこと

大きくて、ところどころに暗がりがあって 【沙河34】

 

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今年最初にじっくり見た桜「江戸彼岸(エドヒガン)」 多摩よこやまの道

こんにちは、暖淡堂です。

先週末、妻とお散歩していると、桜が咲いているのを見つけたので、近寄ってじっくりと見てみました。

 

今年最初に見た桜

江戸彼岸

 

場所は川崎市麻生区と多摩市、稲城市の境界に沿って伸びているような「よこやまの道」の散策路。

住宅街のすぐそばに、自然豊かな散策路があるのがとてもいいですね。

妻とは時々この散策路を歩いています。

 

www.city.tama.lg.jp

 

この桜の名前は「江戸彼岸(エドヒガン)」というようです。

染井吉野ソメイヨシノ)の原種の一つらしいです。

 

江戸彼岸は染井吉野の原種の一つ

江戸彼岸(エドヒガン)案内板

 

そろそろ関東でも染井吉野ソメイヨシノ)が咲き始めるようですね。

今年も健康で、桜の花が見られてよかったと思っています。

来年も無事、桜の花が見たいな。

 

*☺☺☺☺☺*

 

 

今年最初にじっくり見た桜「江戸彼岸(エドヒガン)」

多摩よこやまの道

 

 

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「弟の牛若は、四歳までは母とともに暮らしていたが」 義経記 巻第一 常盤都落(みやこおち)の事(五)

こんにちは、暖淡堂です。

義経記」の常盤都落ちの五回目。

常盤は清盛を受け入れます。

そして三人の子らの命を助けます。

ここで、今若、乙若、牛若(義経)三人の生涯が語られます。

 

 今若は、八歳になった春の頃からかんじょう寺(観音寺、醍醐寺か)で学問をさせ、十八の年に受戒し禅師の君と呼ばれるようになった。後に駿河の国、富士の裾野の阿野という山寺で仏法を盛んにしておられたが、そこでは悪禅師殿と称せられるようになっていた。

 乙若は八条に住んでいたが、僧ではあっても企みのある恐ろしい人で、加茂、春日、稲荷、祇園の御祭があるごとに平家を狙い、最後は紀伊国(きのくに)にいた叔父新宮十郎行家が反乱を起こした時それに従い、東海道の墨俣川で討たれてしまった。

 弟の牛若は、四歳までは母とともに暮らしていたが、世の中の子たちよりも心のあり様や振る舞いが優っていた。清盛はそのことを気がかりに思っていて、「敵の子を身近に置いていては、結局よくないことが起こるのではないか」と言った。それで、京よりも東、山科というところに源氏に代々仕えていたものが隠れ住んでいた家があったので、牛若はそこに置かれて七歳まで育てられていたのであった。

現代語訳:暖淡堂

 

*☺☺☺☺☺*

 

義経の兄弟それぞれに、波乱の人生があったようです。

 

 

 

義経記 巻第一 常盤都落(みやこおち)の事(五)

 

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