賀茂斎院として11歳から21歳まで過ごした人でした。
今回は式子内親王について紹介します。
式子内親王とは
生年が1149年、没年が1201年。
後白河天皇の皇女です。
21歳で斎院を退きますが、その後は社会とは交わらず、藤原俊成や藤原定家らの指導を受けて和歌を勉強するような、静かな暮らしをしていたようです。
その式子内親王は、のちに呪詛事件の犯人とされてしまいます。
この事件があってから、式子内親王は出家しますが、亡くなるまでの生涯は、本人が希望したような穏やかなものではなかったように思えます。
歌に詠まれている「玉の緒」とは、玉を貫いてつなぐ糸。
玉(魂)をつなぐ糸の意味に転じて、命の意味となります。
この命が絶えてしまうのであれば、絶えてしまえ。
そう式子内親王は自分の命に向かって言います。
この「忍ぶ恋」が世の人々に知られてしまうくらいなら、死んでしまう方がよい。
そんな意思の表明の歌のようです。
時代背景
斎院の始まり
斎院という制度が始まったのは平安時代の初期。
平城上皇と嵯峨天皇が対立し、平城上皇は都を平城京(奈良)に戻そうとします。
その際、もし勝てたならば皇女を「阿礼少女」として捧げると誓いました。
阿礼少女とは、神社での儀式に奉仕する女性のこと。
この争いは810年の「薬子の変」。
そこで嵯峨天皇側が勝利したため、娘の有智子内親王が斎王となりました。
この斎王の御所が斎院と呼ばれます。
以下の書籍の第九章に、「薬子の変」前後の事柄が記載されています。
百人一首の歌
歌:玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
歌の意味:私の魂を繋ぎ止める糸よ、絶えるのであれば絶えてしまって欲しい、もしさらに長生きするのであれば、忍んでいる心が弱ってしまい、外に漏れてしまうかもしれないのだから。
「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば」 式子内親王
斎院による「忍ぶ恋」の歌
またお立ち寄りください。
どうぞご贔屓に。
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