こんにちは、暖淡堂です。
別ブログ「散木の小屋」で「臨済録」原文全文と現代語訳を紹介しています。
今回は以下の記事を作成した時に考えたことを書きたいと思います。
臨済が修行をし、また多くの修行僧たちを指導した時代は唐の末期。
安史の乱の後の、混乱した状態の唐の国の大体黄河下流域を活動の場としていました。
その頃、その地域を治めていたのが軍閥。
臨在は、その軍閥の有力者のところに説教にいっていたことが、「臨済録」の記述からうかがえます。
そこで考えたのが、「臨済宗」の日本での受け入れられ方。
日本に「臨済宗」の教えが伝えられたのは、宋の頃に中国に渡った栄西によります。
栄西が触れた「臨済宗」は、おそらく「臨済録」が臨済の語録としてまとめられた後。
すでに初期の形は出来上がっていたと思われます。
当時の中国は女真族が建国した金に北から強力な圧力を受け、首都を奪われて南に逃れた後の南宋の時代。
また、さらに北部ではテムジンがモンゴル族の統一を進めていました。
軍事的な衝突はそこここで起こり続けています。
その中国に渡った栄西は、混沌とした状況を乗り越えるための何かを臨済の言葉に見つけたのではないでしょうか。
その言葉の教えの中に、ぜひとも日本に持ち帰りたいと感じたものがあったのかもしれません。
栄西が持ち帰った「臨済宗」の教えは、京で受容されたことに加え、北条政子をはじめとする鎌倉幕府の要人たちに多くの帰依者を得ました。
「臨済宗」に帰依した人たちは、乱世を生き抜かなければならない自分たちが求めているものを、その教えの中に見ていたのでしょう。
日本の平安時代後期から鎌倉時代にかけて、中国では周辺の異民族による強力な国家が相次いで生まれています。
それを知っていた当時の日本の指導層は、どのように危機を回避するか、考えなければならない状況にあったと思います。
そんな中、現地の様子を見るために僧たちが派遣されていたのではないでしょうか。
またお立ち寄りください。
どうぞご贔屓に。
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