こんにちは、暖淡堂です。
「臨済録」の示衆から。
臨済の下に集まって教えを乞う僧たちは、きまって、今自分が持っていないものを求めています。
自分が理解できていないもの、知らないもの、所有していないもの。
そんなものが、禅を修行することで得られると信じているようなのです。
そんな僧たちに対して、臨在は丁寧に説明します。
その中の一文。
原文:今日多般用處、欠少什麼
現代語訳:今日さまざまな現象として目に見えることには、なにも欠けたものなどいないのだ
この世には、全てがあり、何かが欠けている訳ではない。
一人一人の人間にも、必要なものは全てあり、不足しているものはない。
それに気づかないだけだ。
すでに十分に持っているのだ。
何よりも、それを理解せよ。
そう臨在は繰り返し説くことになります。
ついつい私たちは、自分を他人と比較して、あるいは平均的な人を想像して、その人が持っているだろうものが自分にはないと思ってしまいます。
しかし、それはただの想像。
平均的な人というのも、もしかしたら他人が意図的に作り上げたイメージかもしれません。
自分自身には、欠けたものなどないのだ。
そう思うだけで、少しは気分が楽になります。
【臨済録を読む】示衆(2)「今日多般用處、欠少什麼。」(今日さまざまな現象として目に見えることには、なにも欠けたものなどいないのだ)
ないもの探しの無意味さについて 原文と現代語訳
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