百人一首第75番目の歌の作者は藤原基俊です。
百人一首の選者藤原定家の父、藤原俊成の和歌の師でもありました。
今回は藤原基俊について紹介します。
藤原基俊とは
生年が1060年、没年は1142年で、平安時代後期の人。
権勢の中心にいた藤原北家の一人です。
藤原道長の曾孫にあたりますが、生涯高い官位にはつきませんでした。
晩年は出家し覚舜と称しました。
歌人、書家として評価されました。
藤原基俊の子は律師光覚としい、奈良興福寺の僧でした。
この光覚を、興福寺で開催される維摩会の講師に選ばれるようにさせてあげたく、時の権力者藤原忠通に頼みました。
藤原忠通は、期待させるようなことを言ったのですが、結局は光覚は選ばれませんでした。
その時に詠んだ歌が百人一首に選ばれたものだったようです。
藤原忠通への恨み節だったのですね。
時代背景
興福寺は藤原鎌足が釈迦三尊像を造立したところからその歴史が始まるようです。
その後も藤原氏の隆盛に伴い、発展を続けたようです。
そもそもが藤原氏ととても強く結びついている寺院だったようですね。
ちなみに、この興福寺は、後、平重衡によって焼き討ちにあいます。
その際、全焼しました。
平家の衰運はこの頃から明らかとなってきます。
百人一首の歌
歌:契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり
歌の意味:頼りにしてよいという言葉を命綱のように信じていたというのに、今年もよい便りがなく秋も行ってしまった。
「契りおきし させもが露を 命にて」 藤原基俊
子の出世を気にかけた親の心情
またお立ち寄りください。
どうぞご贔屓に。
にほんブログ村ランキングに参加しています