「枕草子」の作者として有名ですね。
今回は清少納言について紹介します。
清少納言とは
生年が990年頃、没年は1025年頃。
一方の、一条天皇中宮彰子(藤原道長の娘)に支えていた人たちの中には紫式部がいました。
紫式部は「紫式部日記」の中で、清少納言のことを「したり顔にいみじう侍りける人」と書いています。
自らの才能を隠すことなく振る舞い、周囲の人から褒められることも多かったようです。
それを見た紫式部が、自らの謙虚な生き方との違いを強く意識したということでしょう。
この歌に出てくる故事は、中国の古典「史記」などにあるもの。
孟嘗君のエピソードです。
清少納言の漢学の知識の豊富さがよくうかがえます。
戦国時代、秦の国を訪れていた孟嘗君が軟禁状態になります。
ある夜、同伴していた食客たちと逃げ出しますが、函谷関の門が閉ざされています。
この門、朝にならないと開けられません。
追手は近づいてきています。
そこで孟嘗君とともにいた食客の一人、動物の鳴き真似上手が鶏の鳴き声を響かせます。
それを聞いた関守が、朝になったと思い、門を開けます。
そこから孟嘗君らは無事に逃げ出すことができました。
宮城谷昌光さんの「孟嘗君」では、その辺りの出来事がスリリングに描かれていてとても楽しめます。
一条天皇の中宮定子は、父の藤原道隆が没した後、藤原伊周らの起こした騒動を受けて落飾(髪の毛を剃る、出家する、尼さんになる、という意味ですね)します。
中宮定子は落飾した後も一条天皇の側に呼び出され、子を数人産みますが、最後の出産の際に亡くなってしまいます。
25歳の若さでした。
側にいた清少納言はその様子を見ていたと思います。
権勢の渦の中にいたはずですが、その静かな視線で見つめていた事件が「枕草子」に描かれているようです。
時代背景
藤原道隆と藤原道長は、藤原兼家と時姫(藤原中正の娘)との間に生まれた兄弟です。
藤原道長(966年〜1028年)は、定子の後に一条天皇中宮となる彰子の父。
藤原道隆はお酒好きでおおらかな性格だったようです。
亡くなったのは京の都に流行病が蔓延した995年でしたが、亡くなった理由はアルコールの取りすぎによる糖尿病だったと考えられています。
藤原道隆の関白の位を引き継ぐものと考えていた道隆の息子、伊周が強引な動きを見せます。
藤原道長呪詛、花山法王襲撃などの首謀者とされます。
それが災いして、藤原道隆の息子、伊周と隆家は左遷されました。
最終的には許されて京に戻ることができたのですが、権力の座からは遠ざけられました。
関白職は道隆の弟である藤原道兼が継ぎますが、この道兼は疫病ですぐに亡くなってしまいます。
「七日関白」と呼ばれる所以となりました。
一条天皇は、左大臣に任じられ、正二位に叙せられた藤原道長を信頼し、政にあたっては、道長の意見を多く聞き入れたようです。
一条天皇在位中は、藤原兼家死去後は、しばらく摂政・関白が不在です。
成人した一条天皇と左大臣藤原道長のコンビで政治が行われていました。
百人一首の歌
歌:夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関は許さじ
歌の意味:夜がまだ明けていないのに、鳥の鳴き声を真似て函谷関の門を開けさせることは出来たとしても、けっして逢坂の関の関守は騙されないし、私もうっかりと門を開けることはないでしょう。
「夜をこめて 鳥の空音は はかるとも」 清少納言 学識に裏打ちされた軽妙さ 権勢の渦の中でみせる静けさ
「清少・納言」ではなく「清・少納言」ですね。
時々気になることがあります。
またお立ち寄りください。
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