こんにちは、暖淡堂です。
同じことが、また起こるのではないか、と思うと気が重くなることがありますね。
たとえば、ちょっと苦手な人に話しかけないといけないとき。
また、嫌な言い方で、あれこれ注文をつけられるのではないか、とか、もし不機嫌だったら、ものすごく不愉快になるような言葉を言われるのではないか、とか。
いつも、同じような、嫌なことが起こる、と思ってしまうのはなぜか、考えてみました。
猫は一度目の一度切りを生きている(5)
そもそも、どうして嫌なことは繰り返すのか。繰り返すと思うのか。
繰り返していることとは、どのようなものか。
繰り返しのないものは、いくつかある。
自分の一生は繰り返さない。一度切りの人生だ。
一生の中の、どの一年も、同じではない。閏年であろうとなかろうと関係ない。
どの年も一月一日から始まり、十二月三十一日で終わるが、それぞれの日には、去年と今年では、同じことが繰り返されてはいない。
冬が終わり、春がきて、暑い夏になり、秋が訪れる。
しかし、どの夏も冬も、同じではない。
一日はどうか。昨日と今日とでは違う。天気も違うし、気分も違う。
それぞれに予定も違っている。予定がない日も時々ある。
予定通りにいかない日が一番多いかもしれない。
生きている日々、毎日の暮しは、同じことの繰り返しではない。
朝目覚めるときの、横になっている身体の向きが毎日違う。すぐそばで寝ている家族の身体の向きも違う。布団の位置が違う。
外の明るさが日々変わっている。外を見ると、毎日雲の形が違う。
ああ、また朝がきたと思うが、それはすべて違う朝なのだ。
その中で暮らす僕たちの日々も、同じではない。
それでも、また同じことが起こると感じているのはどのようなことか。
「これをしないといけないが、それをすると、あの人にまた皮肉をいわれるかもしれない」
例えば、こんなふうに考えたときにでてくる、「何かをすると、まただれかになにかをされる」という形のものが繰り返すように感じているのだ。
僕を不安にさせ、不機嫌にさせるものは、だいたいこんなものだ。
簡単にいってしまうと、嫌になるパターンがある。
ただ、そのパターンで起こるすべてのことが、嫌なわけでもない。
むしろ、何かをいってもらいたい人もいる。
僕を不安や不機嫌にさせるカギになるのは、それがだれによるものか、どんな行為なのか、という部分だ。
あの人は、いつも僕をこんな風に見ている。
あいつは、いつもこんな話し方をして、僕を傷つける。
つまりは、その誰かが、いつも同じことを僕に対しておこなうので、僕はその人とのやり取りが嫌なのだ。
その人となにかをしないといけないときに、また同じようにされるのではないかという、その予感で不機嫌になり、行動を起こすべきときにためらいを感じるのだ。
その誰か、その名前をもった誰かは、その人しかいない。
僕が、ここにいる僕しかいないのと同じだ。
僕は頭の中で、その人の名前を思い浮かべる。そして、その名前にいろいろなものをくっつけている。姿形、声、話し方、これまでに僕に対していった言葉、とった態度。
思いだすと、だんだん不愉快になってくる。その人が近くにいなくても、イライラしはじめてしまう。
しかし、今まで考えてきたように、同じものもないし、同じ人もいないし、一人の人でも日々変わっているのであれば、その誰かもずっと同じではなく、変わっているに違いない。
先週、僕に嫌な皮肉をいいながら、本来その人がやるべき仕事を押しつけてきたあの人も、一週間分、変わっているはずだ。
僕が一週間で、いろいろな経験をしたように、あの人も、それなりの経験をしながら一週間過ごしたはずだ。
そもそも、僕はその人のすべてを知っている訳ではない。
それに、その人がいった言葉の意味を、正しく理解できていないかもしれない。
あの人がいったり書いたりした通りには、思ってはいないのかもしれない。
だから、次に同じような場面で、同じような言葉のやり取りをしたとしても、それは似ているのであって、同じではない。
やり取りをする僕とあの人とが、それぞれ変わり続けていているのだ。
なにか、以前に経験したような嫌なことが起こったとしても、それは同じことが繰り返し起こったわけではない。
前のときとは、違う。
なんどもくりかえし不愉快になる、それってどういうこと?猫は一度目の一度切りを生きている(5)
続きです
何かが繰り返すということはどういうことか考えてみました。
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