こんにちは、暖淡堂です。
普段私たちは言葉に頼る生活をしています。
他人とコミュニケーションをとる場面に限らず、自分自身で考えるときも言葉を使っています。
まれに、映像や色彩、イメージ、音、匂いなどを言葉の代わりに使って思考している人もいるのかもしれません。
自分もそうできると素晴らしいことだとは思いますが、他の人と意味を共有しようとすると、結構難しいかもしれません。
言葉は、他の人とのコミュニケーションや自分自身が何かを考える際には欠かせないものです。
そのような便利なものなのですが、一方でそれを使うことによる問題もないわけではありません。
その辺りを考えてみました。
猫は一度目の一度切りを生きている(6)
今日、鉛筆と呼んでいたものが、明日、別の名前で呼ばれることはないだろう。
今日も明日も、その先も、きっと、鉛筆のことを考えると、鉛筆の特徴をもった細長いものを思い浮かべるのだ。
言葉で呼ばれるものとは、そのようなものなのだ。
しかし、現実にある鉛筆はそれぞれ違う。同じものなどない。
言葉というものが、そもそもそういうものだろう。
僕が、今日の朝、といっても、他のひとは僕が過ごしている朝と違う朝を経験している。
ひとの数だけ異なった朝があるのだ。
同じように、今日の朝といっても、それぞれ違う。
同じ言葉で表されても、たくさんの異なるものがある。
言葉だけでは伝わらない、共有できないものがたくさんあるのだ。
共有できていることは、それぞれにある特徴を見ないようにした、共通の特徴から一般化された、ある意味想像上のなにかだろう。
それが想像上のなにかであるで、言葉だけで表現するのであれば、どのようなあり得ない組み合わせもできてしまう。
羽のある馬。
明けない夜。
どちらも、実際にはない。おそらく。
しかし、言葉ではいえてしまう。そして、その意味するところを、僕はなんとなく理解する。なんとなく、である。
もしかしたら、僕を不機嫌にさせる状況やひととの関係も、実際とはないことを言葉の組み合わせで作り上げているだけではないか。
実際にはないものを言葉だけで作り上げ、それを何度も繰り返し考えて、僕は勝手に不機嫌になっているのではないだろうか。
あるいは、一度は確かにあったのかもしれないが、まったく同じことはもう起こらない。
ただ、そもそも、その一度目を、僕は誤解しているかもしれない。
であれば、言葉で考えられているものは、実際には存在しないものばかりだ、と思い切ることもできるのではないか。
僕をいつも不愉快に、不機嫌にさせるひとのことも、僕はそのひとのすべてを言葉でいいあらわせていないだろう。
実際に、存在するもの、実際に起こって僕たちが経験しているものは、言葉がつかみきれていないたくさんの、同じではないもののほうにある。
きっと。
「猫は一度目の一度切りを生きている」暖淡堂、より
猫は一度目の一度切りを生きている(6)
言葉で表現されるときに、何が起こるのか。
続きです
何かが言葉で言い表されるときに起こることを考えてみました。。
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