こんにちは、暖淡堂です。
眠れない夜に考えていることの続きです。
ああ、なんだ、またいつもの同じ結果になるのか。
そんな感じに考えて、やる気が出なくなったりします。
あるいは、なんだあいつ、また同じことを言って、僕のやる気を削ぐのか、なんて思ったり。
この、「同じ」って、なんだろう。
そんなことを書いてみています。
猫は一度目の一度切りを生きている(3)
同じとは、そもそもどんなことだろう。
同じものであれば、なんとなくわかる気がする。
たとえば、誰かが僕の机の上を指さして、こういう場面を考えてみる。
「そこの鉛筆貸して」
ざっと自分の机の上を見渡して、きっと僕はこう答える。
「どれ?」
鉛筆が、数本あるのだ。
「その、赤い字がかけるやつ」
それを聞いて、僕はその人に赤鉛筆を渡す。
鉛筆は、机の上には数本ある。しかし赤い文字の書ける鉛筆といったら、一本しかないのだ。
鉛筆と呼ばれた場合、どれも鉛筆であるので、数本存在することになる。
しかし、赤い文字が書ける鉛筆というと一本になる。
このとき、なにが起こったのか。
赤い文字が書ける、という部分がくっつくと、同じ鉛筆の仲間からはずれてしまう。その一本の赤鉛筆しかなくなってしまう。他の鉛筆とは違ってしまう。
鉛筆として数えられるということは、どれも同じ鉛筆だ、ということだ。
同じだから、一本、二本、三本と数えられるのだ。
手持ちの鉛筆は、どれもメーカーが違う。
芯の硬さもまちまちで、どれも少しずつ違う。
なので、これらを鉛筆として数えようとすると、それぞれの違いを見ないことにしないといけない。
では、新品の、箱から出したばかりの、まだ削っていない鉛筆はどうか。
一見、どれも同じように見える。
軸の色も同じ、芯の硬さも同じ。
手触りも同じで、どれもまだ削っていない。
しかし、よく見ると、断面の、木を貼り合わせている部分の色合いが個々に違ったりする。
仮に、見た目はまったく同じであっても、それらが並べられていたら、右にある鉛筆、あるいは左にある鉛筆のように、区別がつけられる。
そもそも、二本の鉛筆は、まったく同じ場所に置くことはできない。
そろそろ、諦めようか。
まったく同じ鉛筆など、自分の身の回りにはなかった。
身の回りにある鉛筆は、それぞれはそれ一つ切りしかない。
同じ鉛筆は二本ないのだ。
そして、それぞれ違っているけど、鉛筆と呼ばれているものがあり、鉛筆と呼ばれることで、一本、二本と数えられるのだ。
鉛筆として数えられるものの仲間入りをするためには、ルールがある。
鉛筆の隣にマグカップがある。鉛筆を数えるときには、マグカップは含めない。どうしてか。
何かを鉛筆と呼ぶためには、共通の特徴を持っていないといけない。
黒鉛などで出来た芯があり、それを木の軸で覆っていて、先端を削り尖らせた芯の先で紙などの上に文字が書けるもの。大体そんな特徴が必要だ。
おおよそ、辞書に書かれていそうなものだ。
そのような特徴が、マグカップにはない。だから、マグカップは鉛筆ではない。
ここまでを、まとめてみよう。
同じものとは、複数存在して、それらがいくつかあると一つ、二つ、と数えられる。
そのように数えられるためには、同じ名前をつけられていなければならず、同じ名前をつけられるためには、それぞれの特徴を無視して、つけられた名前に相応しい、限られた部分だけが見られている。
つまり、なにかとなにかを同じだと考えている場合、それぞれが持っている特徴は無視しているのだ。
猫は一度目の一度切りを生きている(3)
同じとは、そもそもどんなことだろう。
前回の続きです
同じものと呼ばれるための条件はなにか、考えてみました。
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