安心感の研究 by 暖淡堂

穏やかに日々を送るための試みの記録

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「いにしへの 奈良の都の 八重桜」 伊勢大輔 藤原道長に命じられて詠んだ歌

百人一首第61番目の歌の作者は伊勢大輔いせのたいふ

伊勢神宮祭主大中臣輔親の娘で、百人一首第49番目の歌の作者大中臣能宣朝臣の孫にあたります。

代々歌人として才能を評価される家に生まれた人でした。

 

今回は伊勢大輔について紹介します。

 

伊勢大輔とは

生年が989年頃、没年は1060年頃。

伊勢大輔一条天皇中宮彰子に仕えていた人でした。

一条天皇中宮彰子の周りには才人の集まったサロンのような状況ですね。

 

この歌は、一条天皇の御前に奈良の八重桜が献上されたときに詠まれたもの。

伊勢大輔はその頃、まだ新参の女房でした。

桜の受け取り役を先輩の紫式部から譲られました。

その場に居合わせた藤原道長が、桜の受け取りの際、和歌を詠めと命じたそうです。

それに応えて歌ったのがこの歌。

とても高く評価され、本人も嬉しかったでしょうし、歌人の家の者としてその名誉を守ることができて安心もしたでしょう。

 

時代背景

紫式部日記絵巻の藤原道長像

紫式部日記絵巻の藤原道長

藤原道長(966年〜1028年)は一条天皇中宮彰子の父。

道長22歳の時に左大臣源雅信の娘倫子と結婚し、彰子が生まれました。

当時は入婿婚となるので、男子は結婚すると妻の家へ通い、妻の両親の世話を受けました。

なので藤原道長源雅信のところで世話を受けます。

 

天皇の場合は、さすがに妻の家に通うということはないのですが、その代わりに妻を内裏内に迎え、そこに妻の両親が来て天皇の世話をするという形になったようです。

中宮となった彰子とともに藤原道長が移り、天皇の世話をするようになりました。

これが藤原道長天皇外戚として権勢の頂点に立つ一つの要因となりました。

 

 

 

百人一首の歌

歌:いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に 匂ひぬるかな

歌の意味:昔の都、奈良で咲いていた八重桜が献上されて、九重の宮中でまさに咲き誇っています。

 

「いにしへの 奈良の都の 八重桜」 伊勢大輔 藤原道長に命じられて詠んだ歌

 

またお立ち寄りください。

どうぞご贔屓に。

 

 

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