安心感の研究 by 暖淡堂

穏やかに日々を送るための試みの記録

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「このたびは幣も取りあへず手向山」 菅家 宇多上皇の御幸で

百人一首第24番目の歌の作者は菅家。菅原道真です。

藤原氏と対立し、左遷されるまでは天皇上皇の近くにいて、その才能を愛されていました。

 

今回は菅家、菅原道真について紹介します。

 

菅原道真とは

845年生まれ、903年没です。学者で参議にまで上った菅原是善の三男。

生前の最高官位は宇多天皇の時の従二位、右大臣。このときの左大臣藤原時平でした。

右大臣となる前の菅原道真は遣唐大使に任ぜられていましたが、当時の唐国内の混乱を見て、度々遣唐使の廃止を提議、やがてそれが受け入れられて遣唐使の歴史は閉じられました。

晩年は左遷された太宰府で過ごしました。そこでは衣食住も不便な状態だったようです。貧困の中の窮死とも言えそうな状況でした。

死後はその名誉が回復され、一条天皇の時に左大臣、続いて太政大臣の位階が授けられました。

 

百人一首に採用された歌は、宇多上皇の御幸に随伴した時に詠んだもの。

手向山の紅葉を幣に見立てて神に捧げようという内容です。

そもそも神に捧げ物をするのは王者、天子のみが出来ること。

この歌は、宇多上皇の視点、立場で読まれたものと言えます。

また、菅原道真自身も、そのような高い立場の視点を持っていたのかもしれません。

 

時代背景

菅原道真自身が遣唐使を廃止したように、当時の中国大陸にあった唐という大国は乱れていました。

乱れの発端は、玄宗皇帝晩年の政治の乱れであるとも言えます。

有名な楊貴妃の寵愛や安禄山の重用などがじわりと悪影響を及ぼし、ついには安史の乱などにつながっていきます。

 

百人一首の歌

歌:このたびは幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに

歌の意味:急な出立であったので、幣を用意せずに出てきてしまいました、手向山の神よ、この山の紅葉を幣としてお受け取りください。

 

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「月見れば千々にものこそ悲しけれ」

大江千里 故事によせた哀詩

 

平安時代初期から中期にかけては、都の出来事を追うと、何らかの形で藤原氏藤原北家)の影が見えます。

京の権勢の中心にいるというのは、そういうことなのでしょうね。

 

またお立ち寄りください。

どうぞご贔屓に。

 

 

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