36歌仙の一人であり、古今和歌集の選者でもありました。
今回は凡河内躬恒について紹介します。
凡河内躬恒とは
生年859年は、没年が925年といわれています。
甲斐、丹波、和泉、淡路などの地方官を歴任しました。官位は五位。
凡河内躬恒は紀貫之らとともに、古今和歌集の選者の一人になりました。
また自身の歌も古今和歌集に58首、それ以降の勅撰和歌集にも多くの歌が選ばれ、その和歌の才能が高く評価された人でした。
歌人としては京で実力が認められていましたが、役職は地方官。
地方官の職務を終えて帰郷したほぼ直後の925年に亡くなりました。
時代背景
凡河内躬恒の亡くなった後には、平将門の乱(935年)、藤原純友の乱(939年)が起こりました。
時代が大きく動く、その前夜といえる時期です。
藤原北家の一強の状態に楔を打ち込みたかったのかもしれません。
また醍醐天皇は班田制度の再開、墾田の奨励、格式の編纂などを主導しました。
醍醐天皇の治世はのち「延喜の治」とも呼ばれます。
その時代、和歌をはじめとする文化も栄えました。
中国大陸では唐が907年に滅び後梁が興ります。
菅原道真の建言によって遣唐使が中止されたあとは、中国大陸や朝鮮半島との国交には消極的でした。
公式な国交は開かれませんでしたが、私貿易は盛んに行われました。
この私貿易で力をつけた人たちが、のちに政治にも影響を示すようになります。
百人一首の歌
歌:心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花
歌の意味:思い定めれば折ることができるだろうか、初霜が置かれて見分けのつかなくなった白菊の花を。
時代の変革期には、文化もまた盛んになるようです。
国が栄えるということは、それにふさわしい文化が育つということかもしれません。
またお立ち寄りください。
どうぞご贔屓に。
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