百人一首第36番目の歌の作者清原深養父の孫で、第62番目の歌の作者清少納言の父です。また、三十六歌仙の一人であり、後撰和歌集の選者でもありました。
今回は清原元輔について紹介します。
清原元輔とは
生年が908年、没年が990年。平安時代中期の人です。
生没年からわかるように、当時としてはとても長寿の人でした。
肥後守に任じられたのが79歳の時。
そのまま任地で亡くなりました。
享年83。
和歌の才能は高く評価されていました。
そして多作でもありました。
他の人に頼まれて詠むことも多かったようです。
百人一首に選ばれているこの歌も、人に頼まれて読んだもののようです。
時代背景
「末の松山波越さじ」。
「波」は、穏やかに砂浜に打ち寄せる波ではありません。
平安時代前期の貞観11年5月26日に発生した大地震による津波のことです。
この地震の発生後、朝廷による救済は遅れたようです。
そこで問題になったのは、この地域が日本と蝦夷の境界であったこと。
当時の清和天皇が日本の民であろうと蝦夷の人々であろうと区別することなく救済せよ、と言ったことで、救済が始まったようです。
百人一首の歌
歌:契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは
歌の意味:約束したではありませんか、お互いに涙に濡れた袖を絞りながら。あの末の松山を波が越してしまうことが決してないように、心変わりなどあるはずがないと。
平安時代の前期にも、東北地方に大地震と津波が発生していたようです。
その記憶は京都の人たちにも長く残っていたのでしょうね。
またお立ち寄りください。
どうぞご贔屓に。
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