安心感の研究 by 暖淡堂

穏やかに日々を送るための試みの記録

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「名にし負はば逢坂山のさねかづら」 三条右大臣 風雅を愛する高官の一首

百人一首第25番目の歌の作者は三条右大臣、藤原定方です。

醍醐天皇宇多天皇朱雀天皇に仕えました。

 

今回は三条右大臣、藤原定方について紹介します。

 

三条右大臣、藤原定方とは

873年生まれ、932年没との記録が残っています。藤原北家勧修寺流の人です。

藤原北家は権勢があったのでしょう、藤原定方正三位に昇格した時に右大臣となりました。その時の左大臣藤原北家嫡流藤原忠平。権勢の中心にいた人です。

最終官位は従二位。没後に従一位が追贈されています。

その能力が評価された高官でした。

 

また風雅を愛する文人であり、人気者でもありました。

和歌を愛し、紀貫之らとの親交がありました。

百人一首に選ばれた歌は「さねかずら」が中心に置かれています。

さね「さ寝」とは共寝のこと。

その蔓をたぐるように、愛しい人の所に近づきたいものだ、という意味をかけています。

 

なお、三条右大臣という呼び名は、京三条に邸宅があったことにちなんだものです。

 

時代背景

当時の権勢の中心は藤原北家藤原忠平に権力が集中していました。

一方で、東国の荘園管理、支配という役割を足がかりにして、武士団が育っています。

京から東国に派遣されていた平家、源家、在地の豪族らがそれぞれに力をつけていました。

その勢力争いの中から大規模な争い、平将門の乱が起こるのは藤原定方没後間も無くのことです。

 

百人一首の歌

歌:名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな

歌の意味:その名前の通りであれば、逢坂山のさねかづらをたぐり寄せるように、人に知られないようにしてあの人のところへ行く方法はないものだろうか。

 

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「名にし負はば逢坂山のさねかづら」

三条右大臣 風雅を愛する高官の一首

 

平安時代には京で権力闘争が行われていました

それと並行して、東国では武士団が力をつけていました。

時代の変革の兆しが見えていた頃です。

 

またお立ち寄りください。

どうぞご贔屓に。

 

 

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