こんにちは、暖淡堂です。
義父の遺品の「北海道第百科事典」から。
今回は僕が住んだことのある「旭川市」を紹介します。
当時の旭川市の街略図は以下になります。
北海道大百科事典の刊行は昭和56年(1981年)。
僕は昭和58年から4年間暮らしたので、僕が旭川に引っ越す2年前の状況です。
当時の旭川の人口は35万2620人。
札幌に次ぐ北海道第2の都市。
砂川で生まれ育った僕にとっては、大都会でした。
1890年に旭川村ができ、1893年に永山村戸長役場から分離した戸長役場が旭川村に置かれました。
永山の方が先だったのですね。
1900年に旭川町。
この年に第7師団が設置されます。
第二時世界大戦終了までは旭川は軍都の色彩が強かったようです。
旭川市になったのは1922年です。
で、僕の母校の「北海道教育大学旭川分校」を探すと、見つかりました。
地図の中央部左寄りのところ。
確かに近くに「アイヌ記念館」の看板があったなあ。
「川村カ子トアイヌ記念館」ですね。
川村カ子トアイヌ記念館 – 一般社団法人 旭川観光コンベンション協会
僕は川端町の、当時すでに古かったアパートに住んでいました。
そのアパートから大学まで、徒歩でテクテクと通っていました。
ずっと銭湯利用。
銭湯は火曜日が定休日で、その日は神楽の温泉に行ったりすることもありました。
なんてことを思い出しながら地図を見ていると。
近文辺りから教育大に向かって、鉄道路線が伸びているのを発見。
「大町岐線」とあります。
僕が住んでいた時には、こんな路線はなかったと思います。
この地図のたった2年後のことなのですが。
で、調べてみると、大町岐線にあった大町駅の情報がありました。
この記事をみると、この路線は第7師団用の貨物運搬用の引き込み線。
戦後も石炭や木材などの貨物運搬使われていたようです。
廃線になったのは昭和53年とのこと。
昭和56年刊行の「北海道第百科事典」には、その当時の名残が記録されていたということですね。
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