我が家の家系のルーツは和歌山県にあります。
祖父母の家系の人々は、東牟婁郡というところに住んでいたようです。
おそらくは農家でした。
大正の終わりから昭和にかけて、和歌山県からは多くの家族が南北アメリカ、カナダ、当時の満州、それから北海道などへ移住しています。
政策的な後押しがあったようです。
祖父母の家系は北海道に移住しました。
最初に生活の拠点とし、開拓に取り組んだのが、道北士別の辺り。
温暖な和歌山県から、一気に寒冷の土地に移住し、家を自分達の手で建て、そこでの暮らしを始めました。
当時の苦労は大変なものだったでしょう。
祖父は土地を拓きながら、事業も手がけていたようです。
デンプン工場の経営に取り組んだ時期もあったようで。
デンプンは、当時の日本の重要な輸出品。
競争相手も多かったかもしれません。
今回は、祖父母のそれぞれの家族が北海道に移住してから結婚して砂川に辿り着くところまでの部分です。
【沙河】昭和四〇年~昭和五〇年 (二)①
私の家系は、曽祖父母の代に、それぞれ家族を引き連れ、北海道に入植した。
北海道の中央部からやや北西側の地域、石狩川の支流の一つ、オサラッペ川の流域に広がる土地だった。
明治の終わりから大正にかけての頃だ。
北海道入植前は和歌山県の南部に住んでいた。太平洋に面した本州最南端の土地である。
そこから、いくつかの家族が集団で移住し、寒冷の大地を切り開いて生活を始めた。
祖父母は北海道入植後に出会い、家庭を持った。
まず、切り開いた土地で稲作を始めた。祖父はそれと同時に、いくつかの事業を手掛けた。他の仲間と共同で馬鈴薯を原料とする澱粉の製造工場の経営を試みたりもした。
そして、家族の暮しを豊かにすることを目指しながら、数度の転居を繰り返した。
祖父母とその家族は、旭川周辺の土地から、ゆっくりと石狩川沿いに南下した。
第二次大戦開戦前の頃に辿り着いた町は、東側に、低い山並みが南北に続いていた。遠く西の方角を望むと、初夏まで雪を残すピンネシリの峰が輝いて見えた。
石狩川流域の原生林を切り開いて作られた町だった。
周辺の炭鉱から石炭を運ぶための鉄道は明治の早い時期から敷かれていたが、周囲にはまだ手付かずの森林や深い沢、小川や湿地が多く残されていた。
その広い土地に入植し、それぞれの土地の間を細い道でつないで、人々は連絡し合っていた。
「沙河」(暖淡堂書房)から
北海道入植民としての我が家のルーツ
道北に入植してから砂川に移り住むまで 【沙河2】
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