新十津川にあった母親の実家は、冬には暑い雪に埋もれていました。
雪が積もると自動車は使えなくなって、足で雪を踏み固めた細い道を伝って行き来をしていました。
馬そりで移動していたところもあるようです。
真冬には広い田圃が一面の雪原になってしまいます。隣家はずっと遠くに見えるだけ。
開拓で入植したての頃は、さらに隣家は遠かったのかもしれません。
それも、雪が降り始めるとまったく見えなくなりました。
妹が生まれる前後に、僕が預けられていた頃、従姉妹達は中学生から高校生くらい。
女の子らしく、アイドルのグラビア写真が掲載された雑誌を買って、姉妹で読んでいたようです。
北海道の田舎の、昭和40年代半ばの頃のことです。
【沙河】昭和四〇年~昭和五〇年 (四)②
日中は母方の祖父母と過ごしていた。家は雪に埋もれていた。
祖父母はいずれも家の中か、家に継ぎ足したように建てられていた馬小屋、鶏小屋で作業していた。そして時折、私の遊び相手になってくれた。
台所に薪ストーブがあり、祖父はその前に座って、煙管で煙草を吸っていた。私はその匂いが好きだった。祖父はとても穏やかに話す人で、私は昼間、祖父の側で過ごすことが多かった。
祖母も側にいて、いつもニコニコと笑っていた。あまり話の上手な人ではなかった。それでも、私の事を、「この子は賢い。きっと偉い人になるぞ」といつもいってくれた。
伯母は低い流しと調理台を使って、料理をしていた。伯母の、蕎麦粉から作る手打ち蕎麦が美味しかった。私の蕎麦好きはこの時の経験から始まっている。伯母が蕎麦を茹でると、鍋から立つ湯気が、冬の台所を暖めた。
午後になると従姉、従兄たちが学校から帰って来て、家の中が賑やかになった。
従姉は三人いて、その下に従兄が一人いた。私は一番年上の従姉に面倒を見てもらっていた。その従姉は中学生くらいになっていたか。二歳の私から見れば、大人と変わらなかった。
従姉たちは二階に部屋を持っていた。狭く暗い階段を上がった所にあった。
壁や天井に、雑誌の切り抜きがたくさん貼られていた。いずれも若い歌手のグラビアだった。私は従姉たちと一緒に、その部屋で寝ていた。寝ながらその切り抜きを見上げていた。
やがて父が迎えに来た。
その日も雪が降っていた。ストーブの側で祖父母と話をしていた父が帰るというと、私は慌てて走っていき、父の背中にしがみついたそうだ。
私はそのまま父の背中に負われて帰った。
バス停は深く雪に埋もれていた。
「沙河」(暖淡堂書房)から
*☺☺☺☺☺*
寂しそうな様子はまったくなかったとのことでしたが、父親の姿を見て、何かが急に思い出されたのかもしれません。
雪原の中の細い踏み分け道を、父と一緒に帰った時のことを今でも覚えています。
夕方の、雪が青く光るような景色の中を。
母方の祖父母のこと、新十津川で過ごした昭和の農家の家 【沙河9】
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