崇徳院は騒乱の敗者となります。
今回は崇徳院について紹介します。
崇徳院とは
生年1119年、没年は1164年。
第75代天皇です。
鳥羽天皇の第一皇子。
母は待賢門院(藤原)璋子。
ただ、本当の父は鳥羽天皇の父、崇徳天皇の祖父にあたる白河天皇であるとの疑惑があります。
それが保元の乱の一因とも考えられています。
その地で亡くなりました。
髪を伸ばし放題にし、爪を切ることもなく、生きながら天狗になったとも言われています。
美しい風景を題材にした「恋歌」になっています。
その歌を作った頃と、保元の乱に敗れた後の姿と。
ものすごく変化が大きいですね。
激動の人生を歩んだ人だったと言えます。
時代背景
菅原道真、平将門、崇徳院は、日本の三大怨霊と呼ばれているようです。
確かに、それぞれ伝説になっていますね。
この三人の中では、平将門以外の二人は、京都から遠くへ移動させられ、その地で亡くなりました。
その地でそれぞれあまり恵まれない最期を迎えたようですが、実際に京にいる人たちを呪ったのかは疑問がありますね。
どちらかというと、とても強い郷愁の念を抱いていたということではないでしょうか。
百人一首の歌
歌:瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
歌の意味:瀬の流れが速いので、岩に打ち当たる滝川の水が二つに裂かれるが、最後にはまた一つになるように、愛しいあの人ともまた会おうと思うのだ。
「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の」 崇徳院
騒乱の時代前夜
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