安心感の研究 by 暖淡堂

穏やかに日々を送るための試みの記録

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旭川、鷹栖の親戚の家のこと 昭和の頃は、旭川が大都会に思えたこと 【沙河13】

 

旭川に路面電車が走っていた


  

 

小学校に入学する前は、祖父母に連れられて、よく親戚の家に行きました。

祖父や祖母の家系は、入植後、道北の旭川、士別、比布あたりに住んでいました。

 

祖父母によく連れて行ってもらった親戚の家は、多くが旭川や鷹栖の周辺。

広い田圃の中に家がポツリポツリとあるようなところでした。

 

旭川の駅前は、子供の目から見ると大都会。

市外につながる路面電車がまだ走っている頃でしたね。

旭川電気軌道という会社が運営している電車でした。

 


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旭川は、砂川とは比べられないほど大きな街でした。

そこで僕は、初めてカウンターの前でお寿司を食べたことを覚えています。

祖父母の遠出におとなしくついていったご褒美だったのかもしれません。

 

  

【沙河】昭和四〇年~昭和五〇年 (七)①

  

 私は祖母に連れられて、祖母の母親や姉妹の暮らす家に何度か行ったことがある。

 初めて行ったのは、四歳か五歳くらいの頃か。どの家も道北の旭川の周辺にあった。

 それで、私は大きな町といえばまず旭川を思い出す。私はこの町で初めてレストランで食事をし、路面電車に乗った。

 祖母の母親は、私が初めて会った時、すでにかなりの高齢だった。身体も丈夫な方ではなく、寝たり起きたりの状態だった。

 皆からおばばと呼ばれていた。おばばはその後百歳近くまで生き、最後はほぼ寝たきりではあったが、大勢の家族に看取られ、大往生を遂げた。

 祖母の姉と妹にその時会った。祖母と祖母の妹とはそっくりで、いつも祖母の側にいた私でさえ間違った。

 夕食時、私は食卓を囲んで集まった親戚たちの前に立ち、歌を歌った。その頃流行していた歌謡曲だったと思う。皆から喝采を浴びた。そして祖母の隣に急いで戻った。その時に間違った。祖母だと思っていた人が、祖母の妹だったのだ。

 それに気づいた私は慌てた。その慌てた様子が親戚一同の笑いを誘った。

 祖母と、祖母の妹とを間違えたことは、その後もしばしば、その家に行った時には話題にされ、恥ずかしかった。

 祖母の姉は、身体の弱い人だったらしい。祖母の姉妹はほとんどが子供の頃に奉公に行った経験があったが、祖母の姉は行かなかった。奉公仕事に耐えられないだろうということだったらしい。その人はしかし、姉妹の中では最も長生きをした。

 その祖母の姉も、曾祖母より先に亡くなった。私の知る祖母の方の親戚では、最も長寿だったのが、おばばであった。

「沙河」(暖淡堂書房)から

 

   

*☺☺☺☺☺*

 

親戚の家には老人がたくさんいたように記憶しています。

その人たちの年齢を考えると、今の僕自身の年齢とそれほど変わらないようですが。

それを思うと、随分と自分も歳をとったのだなあと思ってしまいます。

    

旭川、鷹栖の親戚の家のこと

昭和の頃は、旭川が大都会に思えたこと 【沙河13】

  

またお立ち寄りください。

どうぞご贔屓に。

 

 

 

 

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