北海道の砂川に定住したのは、戦前から戦中のことのようです。
当時はまだ砂川町でした。
戦争中は東洋高圧(現三井化学)の社宅に住んでいたと聞いています。
長屋のようなことろだったようです。
僕の父はまだ小学生。
家の近くにあった田圃の畦道を走り回って遊んでいたと、何度も話に聞きました。
父は米軍の飛行機が飛んできたのを見た記憶があります。
第二次世界大戦の末期、米軍の爆撃機は北海道にも飛来するようになりました。
東洋高圧の工場が標的の一つになったのでしょう。
軍需工場ということではないかもしれませんが、火薬を製造していたようです。
その火薬は、そもそもは近隣の炭鉱で使うためのものでした。
おそらく兵器にも利用されていたのでしょう。
祖母からは、防空壕に逃げ込んだことを、思い出話に聞かされたことがあります。
東圧の社宅の近くに掘られていたのでしょうね。
我が家は家族が戦争で欠けるということなく、終戦を迎えました。
砂川にたどり着いてからしばらくは自分達の農地はなく、工場の仕事の収入で暮らしていたようです。
終戦後、農地開放政策によって、それほど広くはありませんが、土地を手に入れました。
今回は、そこでの生活が始まるところまでを紹介します。
【沙河】昭和四〇年~昭和五〇年 (二)②
終戦の翌年になって、その町の東側、山並みに向かって緩やかに昇る土地の一部を手に入れ、私の家族は移住した。
戦争中は、町にあった大きな化学工場の社宅に住んでいた。化学工場では、近隣にあるいくつかの炭鉱で採掘される石炭を使った肥料製造や、炭鉱で使うための火薬製造などを行っていた。火薬を製造していたので、米軍の空襲の対象になったようだ。
祖父は電気配線工事の知識と技術を独学で身につけ、小さな会社を起こし、工場の施設内の配線工事を請け負っていた。澱粉の事業を行っていたときの知識も生かしたのだろう。
自分たちの土地に家を建てた。木造の家だ。祖父が自らの手で建てたものだった。
祖父母とその子供たちが新たな暮らしを始めた。工場での仕事を続けながら、農家として大地に足を着けた生活も始めたのだ。
家に隣接して納屋や鶏小屋が建てられていた。納屋にはやがて大型の脱穀機が置かれた。
納屋の隣には馬小屋が作られていて、馬が一頭飼われていた。夏は農耕作業に使われていたが、冬には橇を引き、貴重な交通手段となっていた。
住み始めた土地には電力が行き渡っていなかった。祖父は、近所の人たちと共同で、それぞれの家庭で利用するための電力の供給網を整備した。電力会社や役所などと交渉し、また自ら工事作業も請け負った。
それは長い期間をかけた大きな事業となり、電力の供給網が出来上がった後は、地域の人たちの生活は便利なものになった。
「沙河」(暖淡堂書房)から
北海道の砂川に祖父母が定住し、自分達の土地を手に入れ家を自力で建てたこと 【沙河3】
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