(東洋高圧時代の工場の写真があります)
僕は、学校帰り、自分の家とは反対方向の、工場の社宅などが立ち並ぶ住宅街に帰る友達の後についていったことが何度もある。ずいぶんと遠回りして自分の家に帰った。
その頃の気持ちは、今の僕にはよくわかるのだが、うまく説明できない。友達ともっと長く一緒にいたかったのかもしれない。あるいは、住宅街に帰る友達が羨ましかったのかもしれない。
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終戦時、祖父母が砂川市内の農地を購入しました。
それ以降、我が家はずっと田んぼの中に建てた家で暮らしていました。
近所に同級生は誰も住んでいません。
それで、放課後、僕だけが友達と別れて帰らないといけませんでした。
それが寂しかったのでしょうね。
わざと遠回りして、しばらく友達と歩きながら遊んで、それから帰ったことが何度かあります。
帰り方がわからなくなって、泣きそうになったこともありました。
東洋高圧の社宅がたくさんあったところが「宮川町」、「日出町」と呼ばれていました。
「宮川町」の方は長屋で、友達の多くはそこに住んでいましたね。
友達が近所にいるというのがとても羨ましかった。
「日出町」の方は、もしかしたら管理職用の社宅だったのかもしれません。
戸建てのものが主だったような気がします。
東洋高圧は、今の北海道三井化学の前身です。
祖父も父も、その工場の中で電気工事を請け負って働いていました。
詳細は「沙河」の方で紹介します。
東洋高圧工場の社宅 豊沼-砂川(十四)
またお立ち寄りください。
どうぞご贔屓に。
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