歌道の大家ですね。
今回は皇太后宮大夫俊成について紹介します。
皇太后宮大夫俊成とは
生年は1114年、没年は1204年。
この人も藤原北家に連なる人。
藤原道長の孫にあたるようです。
また後鳥羽院の頃に和歌所寄人となるなど、歌道の大家として活躍します。
勅撰集に選ばれた歌は紀貫之、藤原定家に次ぐ歴代3位(414首)。
数ある歌の中から藤原定家によって選ばれたのがこの歌。
明るくなく、艶っぽさもなく、ユーモアもありません。
この歌から感じられるのは、むしろ諦めとか絶望。
悲しみの境地でもあります。
そんな歌を藤原俊成は27歳の時に詠んでいます。
藤原定家が、父の歌の中からこの一首を選んだのはどのような心情からだったのでしょうか。
時代背景
中国大陸では1206年にチンギス・カンがモンゴルを統一します。
そして隣接する金や南宋、その他の国々との抗争を繰り広げていた時代。
この頃の歴史を理解するために最適な小説作品は、北方謙三さんの「チンギス紀」ですね。
歴史上の英雄も、ぐっと身近に、人間臭く描かれています。
北方謙三さんの筆力に感動します。
百人一首の歌
歌:世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
歌の意味:世の中から逃れる道を探していたのだが、そんなものはなかった。思い悩みながら入ったこんな山奥にも、鹿の声が悲しむように聞こえてくる。
またお立ち寄りください。
どうぞご贔屓に。
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