こんにちは、暖淡堂です。
歴史に関心があって、色々と歴史書などを読んでいても、鎌倉幕府体制の終了から建武の新政、南北朝にかけての時代はわかりにくいですよね。
後醍醐天皇、足利尊氏、楠木正成の他、登場する人物も非常に多い。
後醍醐天皇は南朝なのは知っていても、例えばその時の北朝側で即位していた天皇は誰だったのでしょう。
この記事では、その辺りを確認した上で、南北朝と呼ばれ始める時代を簡単に振り返ってみたいと思います。
前南北朝時代
鎌倉時代後期、天皇家は持明院統と大覚寺統の二派に分かれて、交互に天皇に即位していました。
この状態が生じていたのが、南北朝に分裂するきっかけとも言えます。
幕府はこの皇位継承に直接干渉し、皇室側も幕府に頼って自らの立場を維持しようとしていました。
鎌倉幕府を倒し、政治の実権を取り戻して建武の新政を実現した後醍醐天皇は大覚寺統で、持明院統の花園天皇の次に即位しました。
後醍醐天皇と足利尊氏
後醍醐天皇は親政を行い、発言力を強めました。
やがて衰退した鎌倉幕府を倒し、皇室による政治を目指すようになります。
これを知った幕府は、後醍醐天皇を隠岐の島に遷し、持明院統の光厳天皇を擁立しました。この光厳天皇を北朝の始まりとする考え方があります。
鎌倉幕府の中心は執権北条氏。
じつは北条氏は平氏につらなる家系。
源氏の名門であり、武家の棟梁でもあった足利尊氏は反北条氏(平氏)の立場を取り、倒幕に動きます。
後醍醐天皇と、目的が同じ部分があったため、行動をともにし、やがて建武の新政が実現されます。
しかし、足利尊氏が勝つと、武家による支配が再び始まりそうになったため、後醍醐天皇は足利尊氏と対立します。
ついに武力衝突になり、敗れた後醍醐天皇は南方の吉野に逃れます(一三三六年)。
これが南朝となります。
その時、京の皇統は途切れたかに見えました。
北朝の成立
京の都で、新たな幕府を立ち上げようとした足利尊氏は、大覚寺統と対立していた持明院統に目をつけ光明天皇を擁立しました。
そして光明天皇の朝廷のもと、征夷大将軍として幕府の体制固めを進めます。
南北朝の時代は、足利義満が働きかけ、南朝の後亀山天皇が後小松天皇に神器を戻した一三九二年まで続きます。
北方謙三「道誉なり」で描かれる時代
鎌倉幕府の滅亡から室町幕府体制の成立、足利尊氏の孫、足利義満の誕生の頃まで。
バサラ大名と呼ばれる佐々木道誉の視点で、大塔の宮、楠木正成、足利直義らの志の形とそれぞれの結末が語られています。
また、道誉自身の生き方も、非常に魅力的に描かれています。
南北朝の時代は非常にわかりにくいのですが、一連の北方謙三太平記とも呼ばれる作品群を読まれることで、すっきりと理解できます。
大人の教養を身につけるテキストととしてもお勧めです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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