誰が言っていることが正しいのか、なんだかもう解らないですね。世の中では色々なことが起こっていますが、それについて、様々に説明されてもいます。
伝染病も、戦争も、その他の事件や事故も、それを理解するために多くの意見が出されています。それも、意見を言う人は、言った時点で自分の役割は終わり、後は聞いた人が判断して、みたいな感じで。
で、私たちは、出来事に対する説明を聞いていても、へえ〜と思うくらいで、どれが正しいのかなんて考え始めたら、すぐに解らなくなってしまいます。
まして、対立している人たちが、自分の方に正義がある、なんて言い始めると、ああこれは解決されない問題になるのだろうなという予感がしますね。揉めに揉めて、ごちゃごちゃで放置されることになりそうで。
そんな状況でも、私たちは日々の暮らしを送っていかないといけません。正しいことが何かなんて、気にしている余裕がない。
自分は、そんな状況で、どんな風に生きているのかな、って、考えることがあります。ぼんやりとですけど。
で、きっと「明日もこの状況が続くといいな」ということは続けて、「明日もこの状況が続くと嫌だな」ということはなんとかして変えられないか工夫してみる。
そんな生き方をしている気がします。正しいことをやろう、なんて意気込んだものではないですね。意気込んでも大したことにはならないですが。
「明日も、この仕事をしたいな」、「明日もこの勉強を続けたいな」、「明日もこの本を読みたいな」、「明日もこの人たちと過ごしたいな」、「明日もこの家で暮らしたいな」、「…」、はきっと自分にとってよいことなんでしょうね。
それを続けると、明日は穏やかな暮らしになりそうな気がします。どんどん増やしたり、より洗練されたものに変えていったりすると、生活の中での喜びが増えそうです。
「明日もこれをするのはしんどいな」、「明日もあの人と会うのは辛いな」、「明日もあの光景を見るのは悲しいな」、あるいは「明日は、あの人にこんな話し方をするのはやめよう」、「明日は、もうこんなことは続けないようにしよう」、「…」、などは、自分にとってきっとよくないこと。
明日もそれが続いていると、落ち着かない、不安な日になりそうです。なんとかして、やめることを考えたり、工夫して少しでもよい方向に変えるのがよいでしょう。
正解や正義で生きるよりも、身近なことを少しずつ整理していくと、もしかしたら世の中がちょっぴり変わるかもしれないな、なんて期待したりします。
不幸で理不尽な状況に置かれている人たちに、早く日常の穏やかな暮らしが戻るといいなと願いつつ、自分の周り数メートルを変えていく。
いつかそれが世の中にちょっぴりとした変化を生み出せるといいな、なんて。
正しいことが何か もう解らない
明日もそれが続くことを望むものを選ぶ
何かを考えても、考えなくても、日々は過ぎていきますね。
充実した日々を送って、最後まで生ききってみたいなら、遠い未来ではなく、今日と明日に働きかけるのがよい気がします。
今日はどうだったか、明日どうしたいか。
そのあたりが勘所ではないでしょうか。
またお立ち寄りください。
どうぞご贔屓に。
にほんブログ村ランキングに参加しています
