平安末期、藤原俊成とともに歌壇を牽引した大御所です。
今回は藤原清輔朝臣について紹介します。
藤原清輔朝臣とは
生年は1104年、没年は1177年。
この人も藤原北家の一人。
平安時代末期の歌壇の中心人物ともいえます。
勅撰和歌集には89首選ばれています。
また歌学書には、「袋草紙」、「奥義抄」、「和歌一字抄」などがあり、当時の歌学の確立、発展に貢献しました。
百人一首に選ばれているこの歌。
今の辛い状況は、時間が経てば懐かしい思い出になるのだろうか、過去の辛い体験でさえ、今思い出せば懐かしいくらいなのだから。
そんなことが詠われています。
始まったものは、いつかは終わります。
辛いことも、悲しいことも、いつかは時と共に、今、ここ、から遠ざかっていきます。
実際に何度もそんな経験をしているもの。
それでも、まさに今、辛い経験をしていると、これが本当に終わるのだろうか、と、不安になったりしますね。
そんなとき、この歌を思い出すといいかもしれません。
時代背景
藤原清輔が亡くなった1177年、京都では不穏な事件がおきます。
政治の中心にいた平家を追い落とそうとした人々が行った「鹿ヶ谷事件」です。
「平家物語」によれば、鹿谷(ししのたに)に俊寛僧都の山荘があり、そこで謀議がもたれたとなっています。
京都東山にあり、後ろは三井寺という位置だったようです。
その山荘に反平家の人たちが集まっては、いかにして平家を追い落とすかを相談していた。
お酒を飲みながら話がされていたこともあったようです。
「あまりにも平家の人たちが政治の中心に多すぎる」
「どのようにそれを片付けたらいいか」
そんな話になったとき、西光法師(藤原師光)が、瓶子(へいし:とっくりのこと)の首をつかんで、
「頸をとるより良い方法はない」
と言って、猿楽の場面を真似て、他の人たちを唖然とさせました。
こんな時代に詠まれた藤原清輔朝臣の歌。
どのように私たちはその意味を読み取るとよいのでしょうね。
百人一首の歌
歌:ながらへば またこの頃や 忍ばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき
歌の意味:生きながらえたならば、いつか今のことを懐かしく思い出すのだろうか、あの頃、辛いと思っていたことさえ、今は懐かしく恋しいほどなのだから。
またお立ち寄りください。
どうぞご贔屓に。
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