こんにちは、暖淡堂です。
古典からは様々なものが学べます。古典を読んでいると、今、書店で売られている本に書かれているような内容のものが、すでに2000年以上前にもあったりします。2000年以上にわたって書き続けられている内容って、人類の永遠のテーマなのかもしれませんね。
「心と身体」について書かれている書物を紹介しています。「管子四篇」の「心術」でです。前回の続きを紹介します。前回は漢字8文字。今回は漢字9文字に増えます。ちょっとだけ長くなります。が、読み方は前回と同じです。
少しずつ、読んでみましょう。
九竅之有職
九竅は九つの穴。身体にある穴のことです。耳、目、鼻、口と数えていくと、頭だけで七つあります。残り二つはそれよりも下にありますね。合わせて九つ。
之は前回出てきました。「~の」、「~が」の意味です。
有職は「職がある」ということ。職はそれぞれの役割ということです。
それで、読み下し文は「九竅の職あるは」となります。意味としては「身体の九つの穴には、それぞれの役割がある」となります。
ここで面白いのは、身体にあるもののうち、それぞれ異なった役割があるものを上げるときに、これらの穴に注目していることです。現代の我々であれば、身体で異なった役割を持っているものを上げるとすると、手とか足とかいいそうです。
それで、昔の人たちは変わった考え方をするのだなあ、と思うかもしれません。でも、手と足の役割が異なっているのは、私たちが習慣的にそうしているからで、本来の機能として異なっているものではないかもしれません。
一方で、鼻の穴が目のようにものを見ることはないし、食べ物を咀嚼して取り入れるのは口です。それぞれ機能と役割が決まっていて、他の代わりにはなりません。目は口ほどにものをいう、なんてこともありますが、それは喩えですね。
「心術」の執筆者がそこまで考えていたのかはわかりませんが、続く文章を考えると、九竅を持ち出したのは適切な選択だったといえそうです。
官之分也
読み下し文は「官の分なり」。官はお役人さん。分は職分。意味は「役人の職分である」。先の分と合わせて読むと「身体の九つの穴には、それぞれの役割があるが、それは役人にそれぞれの職分があるようなものである」となります。役人にはそれぞれ決まった仕事があり、それは身体にある九つの穴のように、その役割は他に代えられないものだ、ということです。
管仲の時代は、役人が自分の職分を離れたことをするのは、役所の仕事を乱すことだと考えられていました。自分の役割を忘れてしまって、職分を離れ、不正な利益を手にするものが多かったのかもしれません。現代の役所ではどうなのでしょうか。
心身二元論、とは
前回の記事で「心身二元論」のことを書きました。「心身二元論」とは、人間は心と身体の二つを元にして出来ている、ということです。私たちがそう聞くと、まあそうだよな、と思えるのですが、中国の春秋時代の思想家が、もうそのように考えて、様々なことの説明に用いていたのは驚きです。古典から、まだまだたくさん学べることは多そうです。
さらに古典を読み進めてみようと思いませんか?
今回はここまでです。前回の分と合わせて、漢字8文字プラス9文字の17文字。それだけの漢字で、これだけ色々と読み取ることができます。これが中国の古典の面白みの一つともいえます。
引き続き、ゆっくりと進めます。
よろしくお願いします。