中国の春秋時代、斉の国の宰相として活躍した管仲の事績や言葉を見ていきたいと思います。
拙著「覇王の佐 ―宰相管仲―」より、まず「韓非子」に書かれた、古代の宰相を評価した文章を紹介します。
「韓非子」は韓非の言葉を書き残したものです。韓非は諸子百家の中の法家に分類されています。韓非の思想は冷徹で合理的なものと考えられていますが、書物の「韓非子」には「矛盾」や「二兎を追う」などの話も書かれていて、読み物として大変面白いものです。
「韓非子」は、岩波文庫に金谷治氏が編・訳されたものがありますので、お読みの方も多いかと思います。
なお、以下現代訳はすべて暖淡堂主人によるものです。
一、覇王の佐
韓非という人物が中国戦国時代(紀元前四〇三年頃~二二一年)末にいた。群雄割拠し動乱の続いた中国が、やがて秦によって統一される、その前夜である。韓非はその頃、後に始皇帝を名乗る秦王嬴(えい)政と会って話をしている。
その韓非の名のもとに集成された「韓非子」という書物に次の文章がある。
<原文>
それ后稷(こうしょく)、皐陶(こうよう)、伊尹(いいん)、周公旦(しゅうこうたん)、太公望(たいこうぼう)、管仲(かんちゅう)、隰朋(しつほう、または、しうほう)、百里奚(ひゃくりけい)、蹇叔(けんしゅく)、舅犯(きゅうはん)、趙衰(ちょうし)、范蠡(はんれい)、大夫種(たいふしょう)、逢同(ほうどう)、華登(かとう)のごとき、この十五人の者の、それ臣たるや、皆夙(つと)に興(お)き夜に寐ね、身を卑(ひく)くし体を賤しめ、心を竦(つつし)み意を白(きよ)くし、刑辟を明らかにし、官職を治め以てその君に事(つか)う。
善言を進め、道法を通じ、敢えてその善に矜(ほこ)らず、功を成し、事を立てる有りて、敢えてその労に矜らず。
家を破り、以てその国に便し、身を殺し、以て主を安んずるを難(はばか)らず。
その主を以て高天泰山の尊となし、而してその身を以て壑谷鬴洧(がくこくふい)の卑となす。
主は国に明名広誉有り、而して身は壑谷鬴洧の卑を受けることを難らず。
かくの如きの臣は、昏乱の主に当たると雖(いえど)も、なお功を致すべし。
況(いわん)や顕明の主に於いてをや。
これを覇王の佐と謂うなり。(韓非子 説疑 第四十四)
<現代訳>
后稷、皐陶、伊尹、周公旦、太公望、管仲、隰朋、百里奚、蹇叔、舅犯、趙衰、范蠡、大夫種、逢同、華登のような、十五人の臣としての振る舞いは、誰よりも先に起き、誰よりも遅く寝、へりくだった態度を守り、心に気をつけて邪心を抱かないようにし、刑罰はわかりやすく行い、与えられた職務をきちんと果たすことで、その主君に仕えるというものだった。
善い意見があればそれを進め、道や法の在り方を、身をもって示しながら、それに驕ることはせず、行政で成果を上げても、それを自分の手柄として誇ろうとはしない。
自らの家財を尽くして国のために使い、身体を疲弊させてもその主を助けることを厭わなかった。
仕える主を高い天や泰山のように尊び、自らを山間の谷や大地の沼沢のように低くする。
主はその名声を国内に響かせ、自らはなお谷や沼沢のような低みにいようとする。
このような臣下が支えるのであれば、その主君が仮に資質に欠けた愚かなものであっても、手柄を立てることができるだろう。
その主君が優れた聡明な人物であれば、優れた功績を世に残すことは間違いない。
このような臣たちを、覇王の佐というのだ。
后稷から華登までは中国古代史に登場する人物で、名臣といわれている。
彼らは諸侯や王と呼ばれる中国古代国家の君主に仕えていた。
これら君主のうち、例えば殷の湯王は伊尹に補佐されて夏王朝を滅ぼし、周の文王、武王の父子は太公望呂尚らに助けられて殷の紂王を倒した。
また斉の桓公は、管仲を宰相とすることで、春秋時代の中原で、諸侯国家を従える覇王と呼ばれるまでになった。
ここに出てくる名臣と呼ばれる人たちは、全員が明君に従うということはできなかったが、そのような場合でも、必ず功績があった。
そのくらいの能力があった。
まして、従う君主が明君であれば、その功績が大であり、多くの民がその恩恵に浴したことだろう。
韓非はそんな彼らをこう呼ぶ。覇王の佐と。
覇王の佐 ―宰相管仲― (1)
また漢文が出てきました。
現代文の部分を拾い読みしていただいて、内容を把握していただければ嬉しいです。
またお立ち寄りください。
どうぞご贔屓に。
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