出張する時は、いつも何冊か本を持って行く。
この本は、松江の道後温泉に宿をとった日の、夕方に読み始めた。
まだ早い、他に人のいない大浴場でのんびりと湯に浸かり、早めの夕食にビールと日本酒をつけて、いい気分になった。
それから、この本を読み始めた。
温泉街のざわめきが、遠くから聞こえていた。
※
よく知っているつもりの町の中に、ひっそりとまだ人の目を避けて潜んでいる、まるでこことは違うどこかへの抜け道のような、妙に白っぽい光の満ちた小路があったりする。
意図せずに踏み込んでしまい、そこから出るには先に抜けるのが早いだろうと思われても、しきりに後ろ向きに駆け出したい衝動に突かれ続ける、そんな均衡の崩れかかった時間の先にだけある、ひっそりとした仕舞屋。
自分ではないものになりたいと願い続けると、越えてしまえばもう戻ることのできない一線が思いがけず近くにあり、軽い眩暈とともにもうすでに何度も踏み越えてしまっていたことに気づいたときに、身に纏ったもののあまりの儚さに震える。
夢は、暗く湿った部屋の中で、一人きりの細い輪を描く。
谷崎潤一郎の作品はどれも、こことそことの、境界があることを思いださせる。
刺青・秘密 谷崎潤一郎
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