こんにちは、暖淡堂です。
歴史で「飛鳥時代」について学びましたね。
ただ、出来事の全体像を流れで理解することができないまま、人名や事件などを個別に覚えていました。
今回、伊東潤さんの「覇王の神殿 日本を造った男・蘇我馬子」を読んで、飛鳥時代にあったことがようやく理解できました。
この時代を理解するための要点は「蘇我氏、推古天皇、聖徳太子」の関係を知ること。
この作品では、その辺りが詳しく書かれていています。
創作の部分も多いのでしょうが、登場するそれぞれの人物の関係はよくわかります。
また後に聖徳太子と呼ばれた厩戸が、皇太子となりながら、なぜ大王(天皇)とならなかったのか、その部分もドラマとして描かれており、とても面白く読み進めることができました。
蘇我氏の立場
当時の大和国は、豪族の寄せ集め。
天皇も大王と呼ばれ、豪族集団の代表のような形でした。
それを、仏教の教えを中心にした国家として整理しなおす。
蘇我氏はそれを目指していました。
それに反対した物部氏。
物部氏は、古来から伝わる信仰を維持することを主張しています。
結果は蘇我氏側の勝利。
この時から、大和国は仏教を国として受容し、国家体制の整備を進めます。
推古天皇とは
これも、天皇が大王と呼ばれ、豪族集団の代表という位置付けであったから実現したようなもの。
格式だとか、前例だとか、そういったことが厳格に求められたら実現しなかったでしょう。
この推古天皇は、もともとは蘇我氏系の女性で額田部と呼ばれていました。
この額田部は王子の頃の敏達天皇の妃となります。
敏達天皇が亡くなった後、中継ぎのような形で大王位に着きます。
この時点で、蘇我氏系の女性が天皇になるということが起こったわけですね。
蘇我氏の力が強大になります。
厩戸王子のこと
子供が山背大兄王。
ここでも蘇我氏の影響力が強化されています。
厩戸は蘇我馬子と協力し、仏教による国の整理、政治体制の実現を図ります。
その成果が冠位十二階と十七条の憲法。
それぞれ当時の隋にならい、朝鮮半島の国々よりも上位と評価されるために作られたものでした。
また、隋との外交関係にも手腕をふるい、遣隋使によって得られた最新の海外の情報を国政に生かしました。
蘇我馬子、額田部、厩戸の亡くなった順
厩戸:48歳、622年没
蘇我馬子:75歳、626年没
額田部(推古):74歳、628年没
「覇王の神殿(こうどの) 日本を造った男・蘇我馬子」 伊東 潤
馬子・額田部・厩戸