通夜の翌日は本堂に祭壇を移動させて告別式。
生まれて初めてお経をフルバージョンで聞きました。
曹洞宗なので、おそらく般若心経も唱えられていたのでしょうね。
「ギャーテイギャーテイ」と言っていたような気もします。
当時は、お経の意味はもちろん解らず、すぐに飽きてしまい、本堂のあちこちを見たりして過ごしていました。
雨が降っていて本堂の中は暗く、ロウソクの灯りが揺れると、ご本尊の表情が変わるように見えたりして、何だか怖くなったことを覚えています。
【沙河】昭和五一年~昭和五二年 (十四)③
本堂から溢れ出すほどに人が集まった。僧侶による読経は通夜の時よりもずっと長かった。私は、焼香のために立ち上がる時に少しふらついた。慣れていない正座で、足が痺れてしまっていたのだ。参列した人々がすべて焼香を済ませるまで、読経は続いた。
読経の後、住職による説教があった。その話も長かった。私は、読経が長かったのも、説教が長かったのも、みな祖父が偉かったからだと思っていた。
午前中一杯かかった葬儀が終わった。私と妹は、祭壇から花をたくさん折り取り、棺桶の中に置いた。母から石を渡され、それで棺桶の蓋を閉めるための釘を打った。
蓋が閉じられると、父や親戚の大人たちが棺桶を担いだ。本堂の外で待っていた大きな黒い車まで棺桶を運んだ。
親戚は皆、マイクロバスに乗り込んで、墓地の中にある焼き場まで一緒に移動した。そこで昼食になった。作ってあった黒飯と、煮しめや揚げ物の入ったパックを渡された。父たちはまたお酒を飲み始めた。
雨は降り続けていた。駐車場は舗装されていなくて、大きな水溜りが出来ていた。
係りの人に呼ばれて、炉の扉の前に行った。私も木の箸を持たされ、いくつかお骨を拾った。お骨を壺に入れたあと、それと一緒に家に帰った。骨壺は仏壇の前に置かれた。
花や灯篭の数が増えていた。灯篭の明りはゆっくりと回りながら、壁や天井を照らしていた。仏間も、桃と菊の匂いが満たしていた。
「沙河」(暖淡堂書房)から
*☺☺☺☺☺*
葬儀が終わるまで、祖母はずっと静かに寂しそうにしていました。
父は普段とは変わらない様子でしたが、ずっとお酒を飲んでいたのが印象に残っています。
父なりの別れを告げていたのかもしれません。
告別式から火葬場への移動まで 雨の降り続いた一日
【沙河30】
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