安心感の研究 by 暖淡堂

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「人も惜し 人も恨めし あぢきなく」 後鳥羽院 配流先の隠岐島で最期を迎えた

百人一首の後鳥羽上皇の歌

 

百人一首第99番目の歌の作者は後鳥羽院ごとばいんです。

芸道、特に和歌を愛した人でしたが、政治にも積極的に関わりました。

 

今回は後鳥羽院について紹介します。

 

後鳥羽院とは

生年1180年、没年1239年。

第82代天皇

父は高倉天皇、祖父は後白河天皇で、平家と共に壇ノ浦で果てた安徳天皇の異母弟にあたります。

和歌をとても愛し、歌人藤原定家を高く評価していました。

勅撰の「新古今和歌集」の選者に藤原定家を当て、自らもその編纂に積極的に関与しました。

新古今和歌集」の改訂は隠岐島に流された後も続けたようです。

 

 

時代背景

和歌や蹴鞠、弓馬などを好むかたわら、為政者としての責任感を持ち、政治にも積極的に取り組みました。

即位は幼帝の安徳天皇が在位のまま平家とともに行動していた頃のことで、一時的に天皇が二人いる期間(1183年〜1185年)が発生しています。

三種の神器安徳天皇のもとにあったため、後鳥羽天皇は神器不在のまま即位しました。

1198年には土御門天皇に譲位しますが、その際も三種の神器は揃わないままでした。

 

やがて、平家を追った源氏が関東で鎌倉幕府体制を構築。

源氏の将軍が三代で絶え、次第に北条執権の体制がつくられ始めていました。

その期間も、京では後鳥羽天皇を中心に、政治が行われていました。

大まかには、関東は鎌倉幕府、京から西は京の朝廷が統治する形だったといえます。

 

三代将軍源実朝が暗殺された後、幕府は京から将軍を迎えようとしますが、それを京の側が拒否。

それまでの対立がさらにこじれていき、やがて京と鎌倉幕府が衝突する承久の乱(1221年)が起こります。

承久の乱では京側が大敗、鎌倉幕府軍が入京し、幕府による京の統制が始まります。

その際、後鳥羽上皇隠岐島に配流されます。

 

隠岐島で詠んだ歌が残されています。

 われこそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け(「後鳥羽院遠島百首」)

 

百人一首の歌

歌:人も惜し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は

歌の意味:人が愛おしく、また恨めしくもあり、辛くなるのは、この世のことを思い続けている、この身だからだろう

 

 

「人も惜し 人も恨めし あぢきなく」 後鳥羽院

配流先の隠岐島で最期を迎えた

 

残り一首になりました。

またお立ち寄りください。

どうぞご贔屓に。

 

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dantandho
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