百人一首の選者ですね。
今回は権中納言定家について紹介します。
権中納言定家とは
生年1162年、没年1241年。
藤原俊成の次男。
藤原北家に連なる人。
最終官位は正二位・権中納言。
貴族ですね。
「百人一首」の他に、「新古今和歌集」や「新勅撰和歌集」の選者でもあります。
「新古今和歌集」は1204年に一旦出来上がりますが、その後も作業が進められ、1210年完成に全体が完成。
配流後の後鳥羽院が追加した「隠岐本」は1221年に出来上がっています。
藤原定家は後鳥羽院が敗れた承久の乱後に大きく昇進した人でした。
権中納言に任ぜられたのが70歳を過ぎてから。
その際も、積極的に任官に向けての働きかけを行なっていたそうです。
時代背景
藤原定家は、源平の武力衝突から鎌倉幕府成立、その後の承久の乱を経る、動乱の時代を生きたといえます。
承久の乱は、それまでの政治体制を大きく変えてしまう大事件でした。
そもそも源頼朝が鎌倉に幕府を開いたとしても、それは天皇に将軍に任じられ、東国を治める立場を認められたというだけ。
鎌倉時代を通じて、将軍は、形式的には天皇に任じられていますが、それには幕府側(北条執権側)の意向が強く反映されていました。
天皇や京都の体制に、幕府の側からの睨みを効かせるようになったのが承久の乱後。
承久の乱に勝利した鎌倉幕府は、後鳥羽上皇を隠岐島に配流します。
それから京都に六波羅探題を置き、朝廷側の動きを監視するようになります。
京都の朝廷側は、幕府の意向を汲みながら、朝廷としての治世を行うことになりました。
承久の乱は、関東に成立した鎌倉幕府と、京都の朝廷との関係が逆転するきっかけとなった事件でした。
百人一首の歌
歌:来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
歌の意味:来てはくれない人を待つ、松帆の浦の夕凪どき、自らの身を焦がしながら藻塩を焼いているのです
「来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に」 権中納言定家
文学と政治の人
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