百人一首第47番目の歌の作者は恵慶法師です。
この人も三十六歌仙の一人です。
今回は恵慶法師について紹介します。
恵慶法師とは
生没年不詳。平安中期の人です。
清和天皇のひ孫にあたり、清和源氏につらなる一人でもあります。
地方官を歴任しましたが、最後は陸奥で亡くなったようです。
陸奥に行ったのは、宮中で事件を起こした藤原実方に同情したから。
奇人として知られた曽禰好忠(第46番目の歌の作者)とも親交があり、その意味では、反骨の気概を持つ人だったのかもしれません。
時代背景
この歌は源融(第14番目の歌の作者)が建造した河原院で歌われたもの。
ここには在原業平らが集まる社交場でもありました。
その河原院は一度荒廃して幽霊屋敷とも呼ばれるほどのところとなってしまいました。
その後、源融の曾孫安法法師が住むことによって、次第にまた人が集まるようになりました。
恵慶法師の歌は、そのようにして河原院を訪れた時のものです。
ここには、過去の王朝をいとおしむ心が歌われています。
同時に、そのように栄光の頂点にあるものも、いつかは衰えてしまうという切なさも表現されています。
そのような現実を見ようとする視線が、後の時代の文学の発展の先駆けとなっているといえるでしょう。
百人一首の歌
歌:八重葎茂れる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり
歌の意味:雑草が幾重にも茂ったこの家に人は誰も訪れないが、それでも秋はここに来ていたのだ。
「八重葎茂れる宿のさびしきに」
恵慶法師 失われた王朝をいとおしむ
時代の儚さを歌った歌ですね。
またお立ち寄りください。
どうぞご贔屓に。
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