百人一首第45番目の歌の作者は謙徳公(藤原伊尹)です。
藤原忠平の孫になります。
今回は謙徳公について紹介します。
中納言朝忠とは
生年が924年、没年が972年。平安中期の人。
この人も当時の権勢の中心にいた藤原北家につらなる一人で、藤原忠平の孫、藤原師輔の長男にあたります。
官位は正二位、摂政、太政大臣。高位にまで上りました。
病気で49歳で亡くなりました。死後に贈正一位。
性格は豪奢なものを好んだといわれています。
父藤原師輔の葬儀に際し、父からは倹約することを日頃から言われいたにも関わらず、普段通りのものを執り行いました。
貴族の葬儀なので、派手なものだったようです。
人々からは、父の遺訓を守らなかったので、49歳という若さで亡くならないといけなかったのだ、とも囁かれたそうです。
この歌の内容は、自分の思いを受け入れてくれない女性に対して、切ない思いを告げたものですね。
それでも、女性は振り向いてはくれません。
藤原伊尹は御曹司であり、容貌にも恵まれていたため、多くの女性と恋をしていました。
そんな男性から、どれほど情熱的に恋心を告げられても、拒絶する女性はいるでしょうね。
時代背景
平安時代は仏教の影響もあり、高貴な身分の人たちの間では火葬が行われていたようです。
火葬につかう燃料の薪などが高価なため、経済力のある一部の人たちにしかできませんでした。
火葬の間は、僧侶が読経します。
それは一晩以上かかりました。
一般の人たちは土葬(土に埋める)または風葬。
風葬が行われた場所としてよく知られているのが「鳥辺野」。
遺体を埋めることなく野晒しにします。
そこに鳥などの獣が来て、遺体を片付けてくれます。
百人一首の歌
歌:あはれとも言ふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな
歌の意味:これほど恋焦がれているのに「かわいそう」とも言ってくれる人とは思えない、これではもうこの身は死んでしまいそうだ。
「あはれとも言ふべき人は思ほえで」 謙徳公
同情を求めた「切なさ」の表現
歌にこめられた「切なさ」も、技巧の一つかもしれないと思えてきます。
現代の我々が想像できないほど、藤原北家の権勢は強大だったようです。
またお立ち寄りください。
どうぞご贔屓に。
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