曽祖父が在原業平で、多芸の貴公子だったようです。
三十六歌仙の一人でもあります。
今回は権中納言敦忠について紹介します。
権中納言敦忠とは
生年が906年、没年が943年。
38歳で亡くなっています。
権勢の中心にいた家系の一人になりますね。
芸事に秀で、美男子でもあったので、数多くの女性と恋愛関係にあったようです。
百人一首に選ばれている歌も、そういった恋愛関係にあった女性と一夜を過ごした後に送った歌。
この女性には諸説あります。
百人一首38番目の作者右近であるという説もあるようですね。
時代背景
「後朝」とは「男女が逢引し、共寝をした翌朝」。
男女がお互いの着物を重ね合い、その下で添い寝をしたので、そういうようです。
衣(きぬ)と衣を重ねたので「きぬぎぬ」。
それに「後朝」という字を当てた。
平安時代は、現在のような掛け布団というものはほとんどなく、着ていたものを掛けて寝ていたようです。
敷布団もなく、身分の高い人でも畳の上に敷物を置いた程度。
庶民は藁などを敷いて寝ていたみたいですね。
冬などは、むしろ藁に埋もれることができる方が暖かかったのかもしれません。
百人一首の歌
歌:逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり
歌の意味:あなたと逢引をした後の朝(後朝)の心にくらべたら、あなたとこうして会えるようになる前の苦しみなどなんということもありません。
「逢ひ見てののちの心にくらぶれば」 権中納言敦忠
後朝(きぬぎぬ)に詠まれた歌
羽毛布団、無圧布団、エアウィーブのない時代にはもう戻れないなあ、なんて思いながら今回の記事を書きました。
昔の人たちは「強靭」だったのかなあ。
またお立ち寄りください。
どうぞご贔屓に。
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