還暦記:暖淡堂

還暦前後の日々の記録を中心に

頭の中でいつも誰かに対して話し続けている その声を聞いている誰かがいる

こんにちは、暖淡堂です。

 

Takachiko!Takachiko!暖淡堂の方で、現代詩やエッセイを続けて公開しています。

 

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太宰治の小説「思い出」の中に、頭の中で常に自分の行動に注釈をつけ続けているということが書かれていました。ふと、とか、我知らず、ということがほとんどないというような内容だったと思います。

 

該当する部分を「津軽」から引用します。

「私が三年生になつて、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかつて、私はしばらくぼんやりしてゐた。橋の下には隅田川に似た広い川がゆるゆると流れてゐた。全くぼんやりしてゐる経験など、それまでの私にはなかつたのである。うしろで誰か見てゐるやうな気がして、私はいつでも何かの態度をつくつてゐたのである。私のいちいちのこまかい仕草にも、彼は当惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら呟いた、などと傍から傍から説明句をつけてゐたのであるから、私にとつて、ふと、とか、われしらず、とかいふ動作はあり得なかつたのである。橋の上での放心から覚めたのち、私は寂しさにわくわくした。そんな気持のときには、私もまた、自分の来しかた行末を考へた。橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思ひ出し、また夢想した。そして、おしまひに溜息ついてかう考へた。えらくなれるかしら。…」津軽太宰治より

 

僕は「ああ」と思いました。僕も頭の中で、いつもなにかを考えていて、まったく沈黙しているということはないのです。常に誰かがなにかについて言葉で考え続けていて、その考えていることを、その近くでじっと見ているような感じです。

 

妻と話していて、妻にはそういうことはほとんどない、頭の中でなにも考えていないときがある、というのを聞いて、みんなが僕と同じように、いつもなにかを考え続けているということではないのだ、と割合最近知った次第で。

 

この、いつもなにかを考えているというのは、結構疲れることでもあります。で、禅の本などを読みながら、時々頭の中をカラッポにするというのを試してみるようになりました。それでも、大体はすぐになにかを言葉で考え始めてしまいます。

 

結構、大変な試みである訳です、僕にとって、頭をカラッポにして、なにかを考えるのを止める、ということは。

 

面白いのですが、このカラッポにすることに、ああ、うまくいっているなと感じたときは、大概、眠くなっています。眠るっていうことは、そういうことなのかもしれないな、なんて思ったりもしています。

 

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頭の中でいつも誰かに対して話し続けている

その声を聞いている誰かがいる

 

夜、眠れない時って、なにかを考え続けていたりしますよね。

それを止めることが自由自在にできたら、随分と便利かもしれません。

 

またお立ち寄りください。

どうぞご贔屓に。

 

 

 

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