藤原北家が権勢を極める第一歩を踏み出した人です。
今回は貞信公、藤原忠平について紹介します。
貞信公、藤原忠平とは
藤原忠平は、菅原道真と対立した藤原時平の弟。菅原道真を太宰府に左遷しましたが、その怨霊に呪われるようにして時平の一族は衰退してしまいます。その藤原時平に変わって藤原北家の氏の長者になったのが藤原忠平です。
藤原忠平は、宇多天皇、醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇の代に仕えました。その政治手腕は優れたものであって、兄の藤原時平と藤原忠平の二人が進めた治世は「延喜の治」とも呼ばれました。
官位は醍醐天皇の時に従一位、太政大臣。朱雀天皇の時には関白を命じられます。村上天皇の代にも引き続き関白となって政治の中心にいましたが、949年に70歳で亡くなっています。死後正一位が追贈されています。
藤原忠平は、平将門の乱、藤原純友の乱を経験しています。京から離れた東国、西国で、新たな動乱の芽吹きが見られるようになります。
ちなみに、この時期のことは、以下の小説作品で描かれています。
僕の愛読書です。
|
兄の藤原時平は菅原道真と対立しましたが、藤原忠平はむしろ親交があったようです。
百人一首に採用されている歌は、宇多上皇の御幸に同行した時に藤原忠平が詠んだもの。宇多上皇の御幸の後に、もう一度醍醐天皇の行幸が行われるので、それまで散らないで待っていてほしいと願った内容になっています。
時代背景
荘園の実際の支配者として力をつけてきた武士団。当初はその一つの勢力であった平氏の中での内乱という位置付けてあった平将門の乱。それがいつか国内における反乱勢力と見做されたことで、朝廷から討伐の命が下されます。
一方の藤原純友は、当時盛んになってきていた中国や朝鮮半島との交易の担い手となっていた水上交易の従事者たちが、政治の中心にいる権力者に反乱したのが藤原純友の乱。藤原純友は藤原北家に連なる人物です。そのような人物が、どのようにして水上交易の従事者たちの反乱の首魁となったのか、とても興味深いところです。
|
百人一首の歌
歌:小倉山峰の紅葉ば心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ
歌の意味:小倉山で色づく紅葉葉よ、もし心があって聞いてくれるなら、もう一度、天皇の行幸がある時まで散らないで待っていてくれないか。
「小倉山峰の紅葉ば心あらば」 貞信公
権勢の中心にいるものの歌
権勢の中心にいる人の力が強くなるのに合わせて、国の周縁部での別の勢力の存在がはっきりしてくる頃ですね。
この後の歴史の流れから目が離せません。
またお立ち寄りください。
どうぞご贔屓に。
にほんブログ村ランキングに参加しています