嵯峨天皇の皇子の一人ですが、臣籍に下り源姓を名乗りました。
恋多き人だったようで、光源氏のモデルの一人とも言われています。
河原左大臣とは
嵯峨天皇の第十二皇子で、臣籍に降った嵯峨源氏の初代になります。左大臣などを歴任し、死後は正一位の位を贈られています。
河原左大臣と呼ばれているゆえんは、陸奥塩釜の風景を模した、贅を尽くした六条河原院を造営したため。塩釜を再現するために実際の海水を運ばせていたとのことです。
また在原業平と同じく、光源氏のモデルと考えられています。在原業平も臣籍に降って在原姓を名乗っていますが、こちらは人生の後半は失意の日々を送っていたようです。
時代背景
前回の陽成院の時にも書きましたが、時代は藤原氏の権力が強まっていた頃。藤原基経が権勢の中心にいて、天皇であっても物事を決めることが難しい状況でした。皇嗣をめぐって争いが起こった時には、源融は上表を出して自宅に引きこもったりしました。
藤原基経が亡くなった後、太政官の首班に立ちましたが、その後数年で源融もまた亡くなりました。
天皇の皇子が臣籍に降ることで源氏と平氏が生まれています。時々清和源氏、桓武平氏のような呼ばれ方がしますが、それは清和天皇の皇子、桓武天皇の皇子から始まった家系であるという意味ですね。
百人一首の歌
歌:陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに
歌の意味:陸奥のしのぶ摺の染模様のように心は乱れている、これは私ではなくあなたのせいだ。
伊勢物語の中にこの歌を踏まえた歌があります。
春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れ限り知られず
もの歌もしのぶもぢ摺の模様で、心の乱れを表現しています。
以下の記事ではしのぶもぢ摺の再現の様子が紹介されています。
引き続きどうぞご贔屓に。
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