中国古代史のおさらいの4回目です。
牧野の戦い前夜
太公望呂尚と文王、武王の親子との出会いが、殷の滅亡に与えた効果は、極めて大きかったと思われます。
呂尚の羌族と、文王、武王を中心とする周の人たちとの協力体制が整いました。
文王、武王の親子が、殷紂王の信頼を得る裏面で、周囲に集まる諸侯に推される形で殷を倒す準備を進めます。
文王自身は殷の王家から降嫁した女性を母としており、紂王からみれば血のつながりのある身内でした。それが紂王の文王に対する信頼の一つの理由だったかもしれません。
この間、羌族の呂尚が殷打倒の計略を実現するべく、一族を率いて密かに活動していたのでしょう。殷の周辺にいる遊牧民の部族たちに働きかけていたと想像されます。
やがて、殷の滅亡につながる牧野(ぼくや)の戦いが起こります。
殷紂王の敗北
東方の異民族による侵攻と略奪が激しくなります。羌族の密約があったものと想像されます。太公望の助力によるものでしょう。
紂王は自ら大軍を率いて、これを討伐しに東方へ向かいます。これが大長征になります。
西方には武王の率いる周の軍が、力を溜めて機会を窺っていました。そして、紂王が東方の異民族に目を向けている間に、背後から周軍が殷軍に襲い掛かります。
軍は背後から襲われると弱いものです。殷と周との運命を決めた戦闘は一日で終結しました。
紂王は戦いに敗れ、燃え落ちる城の中で、自ら命を絶ちます。
この戦いの場となったのが、牧野(ぼくや)です。
牧野は、現在の中国河南省新郷市周辺と考えられています。
周の建国と斉の始まり
周武王は新しい体制を固めようとします。もともと西方に基盤をおく周は、東方の統治に苦慮します。優秀な軍師であり、殷討滅への最大の協力者であった太公望呂尚に、殷の支配圏の東端の治政をまかせることにします。
これが、斉の始まりです。
史書の中の太公望
有名な太公望呂尚ですが、その実像は明らかではありません。司馬遷の「史記列伝」にも、太公望を一つの伝としては取り上げられていません。いくつかの伝の中にエピソードとして取り上げられているだけです。
様々な伝説に色々な人物として描かれていますが、呂尚は、羌族を代表する人物であり、殷の滅亡に関わり、滅亡後は殷の東方に当たる地方を治めた、という以上のことはわからないようです。
しかし、文王、武王の親子を支え、殷を滅ぼし周王朝を打ち立てた時期を補佐した太公望呂尚という存在は確かにあった。それは間違いなさそうです。
周体制の劣化、崩壊の危機、襃姒の笑い
武王は殷を倒した後、少しして病で亡くなります。幼くして後を継いだ成王の時代に国家としての体制整備が進みます。太公望呂尚と、周公旦が成王を補佐します。
周はしばらくはその体制を維持しますが、第十二代の幽王の時に滅亡の危機が訪れます。幽王は襃姒(ほうじ)という女性を溺愛します。
幽王と襃姒には有名なエピソードがあります。襃姒はほとんど笑わない女性になっていたようです。后になるまでの経緯がそうさせたのかもしれません。
そんな襃姒の笑顔を、幽王はふとしたきっかけで見てしまいます。
周の国を周辺に住む部族が、国内に侵攻しようとしています。諸侯は王が命じれば、すぐに戦闘準備をして終結する体制を整えています。
ある時、犬戎などが侵攻したとの知らせがあります。王の周りでは、使いを諸侯に走らせ、大きな烽火を上げさせます。諸侯は自らの軍を率いて集まります。
しかし、これは誤った情報に基づくものでした。この一連の動きが、可笑しかったのでしょう。襃姒は笑います。
その笑顔に、幽王はさらに魅かれるようになります。
幽王は襃姒の笑顔が見たくなります。そこで、諸侯に何度も嘘の招集をかけます。やがて諸侯は呆れ、人々の心は幽王から離れていきます。
実際に異民族に攻め込まれた時に、幽王のために軍を率いて現れる諸侯はいませんでした。
その後、周は滅亡の危機を一旦乗り切りますが、都を東方の洛陽に移さざるを得なくなり、周王家の力も弱くなります。
この時期までを周のうち、西周の時代、洛陽遷都以後を東周の時代と区分けされます。
東周の時代は、ほぼ春秋時代と重なります。
中国古代史のおさらい(4)周建国と崩壊の危機
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