安心感の研究 by 暖淡堂

穏やかに日々を送るための試みの記録

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中国古代史のおさらい(3)殷帝国の落日

中国古代史のおさらいの3回目です。

 

殷の落日

殷の最後の帝は紂(ちゅう)といいます。夏の最後の王桀(けつ)と合わせ、中国で桀紂(けつちゅう)といえば、いずれも国を滅ぼした暴君を意味します。

周の文王は西伯とも呼ばれ、渭水周辺に住む人々をよく治め、紂王からも実力者として認められていました。文王は紂によく従っていたのですが、次第に紂を倒そうと思うようになりました。

紂の暴虐ぶりに不満を訴えた人が多かったようです。文王自身も紂に軟禁され、命の危険を感じたこともありました。伝説では、文王が軟禁されていた時に、易の八卦(天、沢、火、雷、風、水、山、地)を六十四卦(八卦を二つ重ねたもの。八×八で六十四)にしたとされています。

 

殷という国の結束が弱まり、いろいろな問題が発生していたという事情もあります。国の周辺部には、さまざまな異民族(夷)が力をつけてきており、それに対して、国が一体となった対応を求められていたようです。

そのような状況に、殷の体制では応じられない状況になっていました。

 

文王と太公望との出会い

文王は太公望呂尚渭水の畔で出会ったとされています。その時、呂尚は漁夫の身なりをし、釣りをしていたと伝えられています。その呂尚と文王はたまたま出会って話をし、その見識に驚き、意気投合し、この人物こそ太公(文王の祖父、太伯)の待ち望んでいた人物だと気づきます。

そこで、呂尚太公望と呼び、自らの師となるように依頼します。

 

反紂王連合の成立

さて、殷の帝の紂ですが、東方の異民族の動きが無視できない状況になり、それを征伐することに力を入れ始めます。そして、西側の異民族の征伐は周の文王に任せます。文王を信頼していたのでしょう。あるいは、必要になればいつでも除けると思っていたのかもしれません。

文王は異民族を懐かせ、逆らうものは武力で治め、次第に力をつけていきます。紂王の側近はそれを知り、恐れ、文王を誹りますが、自らの権力に自身のある紂王はそれを聞き入れません。 

やがて、諸侯が文王のもとに集まり、一大勢力となります。しかし、文王は諸侯が殷を倒すことを勧めても、軍を起こしません。そのまま文王は亡くなり、子の武王が立ちます。

武王は太公望呂尚を師とし、周公旦を輔として、さらに国力の増大を図ります。殷を倒すように望む声も高まりますが、武王もなかなか応じません。

 

ja.wikipedia.org

 

中国古代史のおさらい(3)殷帝国の落日

 

中国の伝奇物に「封神演義」があります。安能務さんの翻訳本は人気になりましたので、ご存知の方も多いでしょう。紂の暴虐や、后の妲己の悪女ぶり、文王、武王、太公望などの活躍が描かれます。

また、仙人や道士、妖怪などが現れ、ストーリーも荒唐無稽といえますが、中国の古代を理解する上での一視点として意義のあるものだと思います。

純粋にエンターテインメントとして読むのもありですね。とても面白いので、是非ご一読を。

 

以下は安能務さん訳(リライト)です。

 

数回に分けて紹介します。

引き続きどうぞご贔屓に。

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