中国古代史のおさらいの2回目です。
殷という国のこと
湯王によって始められた殷は紀元前11世紀頃に周に倒されるまで続きました。重要なことは占いで決められるような祭政一致の国でした。
動物の骨や亀の甲羅に占いによるお告げが刻み込まれて残っています。甲骨文字です。漢字の起原と考えられているものですね。このような文字が残されていることから、この頃の人々はすでに文字によって意味を表すということを知っていたといえます。
祭事には生贄が捧げられていました。殷の遺跡からはたくさんの人骨が見つかっています。多くは斬首され、身体とは別に埋葬されていました。
祭祀の生贄にされていた人々:羌の人たち
生贄にされていたのは、そのほとんどが羌(きょう)の人たちでした。羌は遊牧の人たちで、殷の国の北西側にいました。
殷はしばしば周辺に住んでいた他の民族と争い、捕虜にしていたと思われます。この頃、すでにいくつかの遊牧民がまとまり、殷の国を窺っていたようです。
殷は、農耕と祭祀を中心にした国家と想像されますが、一方で軍事力を誇り、周辺を圧倒していた国でもあったのでしょう。そして、争いで捕虜になった人たちが、生贄にされたと考えられます。
殷を倒す勢力の強力な一部となる羌族と太公望呂尚
そのような殷に対し、強敵が現れます。殷に服属していた周が次第に力をつけてきます。周は、潼関で黄河に合流する渭水の周辺に起原を持つ人々です。
その周に、殷に迫害された羌の人々が協力します。
周の文王、武王、さらに成王を補佐した太公望呂尚は、羌の人でした。
中国古代史のおさらい(2)太公望登場
数回に分けて紹介します。
引き続きどうぞご贔屓に。
にほんブログ村ランキングに参加しています
