まず、中国の古代史をざっと振り返っておきましょう。
中国文明の黎明 黄河
中国の文明は黄河と長江(揚子江)の、二つの大河の流域に始まります。
黄河は崑崙山脈の南東に源流があり、まず北東に向かって流れます。
現在の万里の長城を越えてさらに北東に進み、陰山山脈に遮られるようにして、東向きに流れを変えます。
陰山山脈の東の端で南に向きを変え、潼関で、西から流れてくる渭水と合流し、最終的に東向きになり、函谷関を通って、山東半島の北の方で渤海に辿り着きます。
もう一つの文明の起原 長江
長江も黄河と同じく崑崙山脈の南に源流がありますが、こちらは雲南まで南下し、そこで他の河川と合流して東に向きを変えた後は、ほぼそのままの向きで流れ、上海の辺りで東シナ海に注ぎこみます。
二つの大河に育まれた文明
これらの大河の流域に、紀元前六千年頃、定住し農耕を行う人たちが現れました。人々は磨製の石器や土器などを使い、生活は安定し、集団で生活し、宗教なども発達したと考えられています。
やがて紀元前千八百年頃になると鉄器が使われるようになりました。集団生活の規模も大きくなり、城壁に囲まれた都市が現れます。
夏の都はどこにあったか
黄河が潼関から函谷関を越え、さらに東にいったあたりにある洛陽の近く、偃師(えんし)市で発掘された二里頭遺跡は、高い城壁で囲まれ、中に住んでいた人の人口は三万人程であったと推定されています。この二里頭遺跡が、現在では夏の国の都であったと考えられています。
城壁の中は整然と区画されており、大きな広場では宗教的な儀式も執り行われていたようです。
殷の都はどこにあったか
この夏を滅ぼした湯王が作った殷の都はどこにあったのでしょうか。
この二里頭遺跡の東側六キロメートル程のところで発掘された偃師城遺跡は、二里頭遺跡よりも新しい時代のものでした。そこでの発掘を続けていると、さらに下の層から、一回り小さな城壁跡が見つかりました。
これが作られたのは、二里頭遺跡が破壊されたのとほぼ同じ時期でした。夏の都を攻撃するために、湯王が近くに城塞を築いた。夏を滅ぼした後、そこを都にし、さらに規模を大きくした。
そのように考え、この偃師城遺跡は殷の都、亳(はく)であると推定されるようになっています。
中国古代史のおさらい(1)
数回に分けて紹介します。
引き続きどうぞご贔屓に。
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