これは、現在では本人の作ではないとの解釈で落ち着いているようです。
読み人知らずとして「万葉集」にあるものを、その後の人たちが「人丸(ひとまる)」作と伝えるようになり、それがやがて「人麻呂」作となったとのこと。
柿本人麻呂という人物は存在していたようで、天武天皇や持統天皇に仕えていた宮廷歌人でした。
今回は柿本人麻呂について紹介します。
柿本人麻呂とは
生年が662年、没年が710年と伝えられています。白村江の戦(663年)、壬申の乱(672年)、藤原京への遷都(694年)などがあった時代に生きました。持統天皇、文武天皇に仕え、天皇や皇族の賛歌、挽歌を残しています。
亡くなった土地が石見(島野県)だったといわれていますが、その最後には不明な点が多く残されています。柿本人麻呂を祀った神社があります。神社は処刑などされて亡くなった人の怨念を鎮めるために作られることがあるので、柿本人麻呂の最後は処刑によるものではないかと想像する人もいます。
持統天皇には重用されたようですが、生涯低い身分のままだったようです。のちの人たちからは「歌聖」とまで呼ばれる人物ですが、その姿はおぼろげです。
時代背景
天智天皇、天武天皇に続く、持統天皇、文武天皇の時代は、唐の様式を取り入れた藤原京において文化の活発な発展がありました。この時代の文化を「白鳳文化」と呼びます。
文学においては漢文学が盛んになりました。これも唐の文化を積極的に取り入れた結果でしょう。大友皇子による漢詩が作られています。また、持統天皇が日本固有の文化として積極的に進めたのが和歌。柿本人麻呂や、額田王らの女流歌人が多く活躍しました。
文武天皇が力を入れたのが仏教美術。薬師寺などの寺院が盛んに建造されました。薬師寺は初め飛鳥の地に建てられましたが、のち奈良への移されたものです。薬師寺の金堂に安置されている薬師三尊像は白鳳文化における彫刻の代表作です。
百人一首の歌
歌:あしびきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む
歌の意味:夜は雌雄離れて眠るという山鳥の、その尾のように、長い長い夜を私は一人きりで眠るのか。
柿本人麻呂 「伝人麿作」 伝説の歌聖について
有名でも、その生涯が記録に残されていない人もいるのですね。
引き続きどうぞご贔屓に。
暖淡堂の愛読書です。とても読みやすいので、お薦めです。
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