安心感の研究 by 暖淡堂

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上堂(7)「不作維摩詰、不作傅大士」(維摩詰だ、傅大士だ、などとは言うなよ) 「臨済録」より

臨済録原文全文と現代語訳

 

こんにちは、暖淡堂です。

「上堂」での講話が続きます。

今回は禅の修行の到達点に触れています。

修行の先にどのような境地に至ればよいのか、到達点はどのようなところか、という議論が修行僧の間で行われていたのでしょう。

あるいは、過去にそのような境地に達した人は誰だったのか、くりかえし話題になっていたのかもしれません。

臨済はそれに対して今回の講話のように話しかけます。

 

上堂。云、一人在孤峰頂上、無出身之路。

上堂して言った。一人は高く孤立した峰の頂上のような境地にいて、もはや悟りをひらくために進む道が尽きているとする。

 

一人在十字街頭、亦無向背。

もう一人は人々とともに日常の中にいるが、世の中の物事とは向き合いも背きもしないで超越している。

 

那箇在前、那箇在後。

さて、どちらがどちらが先にいて、どちらが後ろにいるのか。

 

不作維摩詰、不作傅大士。珍重。

維摩詰だ、傅大士だ、などとは言うなよ。ご苦労だった。

 

究極の境地に到達した人と、世の中の出来事からは超越している人。

どのような状態がより優れたものだといえるのでしょうか。

維摩詰とは釈迦と同時代の人、傅大士は中国の南北朝時代の梁の国の人です。

それぞれ高邁な見識に到達した居士でした。

この二人の、どちらがより優っているのでしょうか。

そんな比較などすることはない、どちらをより目指すべきなどということはないのだ。

そう臨済は説いているようです。

 

*****

 

臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。

 

dantandho.hatenadiary.com  

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上堂(7)「不作維摩詰、不作傅大士」
(維摩詰だ、傅大士だ、などとは言うなよ)
「臨済録」より

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